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「文化時報」コラム

〈105〉国立科学博物館にて

2026年5月23日

※文化時報2026年4月10日号の掲載記事です。

 なんとなく気持ちが「せせこましくなっている」と感じたとき、よく東京・上野の国立科学博物館に出かけます。歴代の科学者たちの功績を拝見したり、あらゆる生きものの剝製や骨格標本を感嘆とともに眺めたり、宇宙の模型の中に、米粒にも満たない地球を拡大鏡で探して、感慨深いため息をついたり。

傾聴ーいのちの叫び

 脈々と続く人類の営みの偉大さと愚かさ。その両方を感じると同時に、その営みを展開させている地球が、こんなにも小さく見えてしまう宇宙の大きさに、ただ驚愕(きょうがく)する。国立科学博物館は、いつでも私をたやすく異次元へと連れて行ってくれる場所です。

 今、自分が抱えている問題や課題を、そういった偉業と同じ土俵に並べて考えること自体、身の程知らずもはなはだしいと苦笑いしながらも、博物館を出るころには「まあ、いいか」と思えている自分がいます。

 もうひとつ、「毎回必ず」と言っていいほど起こることがあります。眠くなるのです。展示物を眺めながら、あくびが止まらない。決して飽きてしまったわけでも、嫌になってしまったわけでもないのに、なぜか毎回、眠くなる。ふと見ると、壁際に設置されたベンチに腰掛けて、居眠りをしている人が、あちらにもこちらにもいるではありませんか。むむ、これは。

 そういえば、美術館でも眠くなる。図書館でも眠くなる。みなさんはいかがでしょうか。そんなこと、ありませんか。

 考えてみるに、あの眠気は、「念」の成せる業(わざ)ではないかと思うのです。かつて大地を闊歩(かっぽ)していた動物たちの念。決してあきらめることなく探求し続けた科学者たちの念。そして、この地球を包括する宇宙そのものの念。美術館には、作品に込められた作者の念があり、図書館には、文字に宿る筆者の念がある。

 これらの空間には、目には見えない念の粒が、びっしりと満ちています。その粒を吸い込み、同化していく過程の副産物として、あの眠気が訪れるのではないか。そんなふうに考えるわけです。

 同化した結果が、「ま、いいか」程度であるのは、それは受け手の器の問題でして(苦笑)。

 それもまた、ま、いいか。

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