2026年7月17日
※文化時報2026年6月12日号の掲載記事です。
本当のところ、いのちは平等ではないのかもしれない、と揺らぎはじめています。

そんなことはみんな知っていて、だからこそ人は「いのちは平等だ」と叫ぶのではないだろうか。
そう思って見回してみると、世の中はたいていそうです。
「誠実に働きます」と大声で演説する政治家。もし、誠実であることが当たり前に身に染みついた人であるなら、きっと、わざわざそれを看板にしたりはしないでしょう。本当に誠実な人は、自分のありようが「誠実」であることにも気付かず、ただ黙って動いているだけなのだと思います。
本当に平等なら、本当に誠実なら、あえて言葉にする必要はありません。だって、それは「呼吸」と同じだからです。
人は、いちいち「私は今、息を吸っています」「私は今、息を吐いています」とは言いません。当たり前にそこにあるものは、声高には語られないのです。
ところが、ひとたび呼吸が苦しくなると、とたんに人は呼吸のことばかり考えはじめます。空気を求め、吸うことに必死になり、吐くことに集中するようになります。
当たり前にあるものは忘れられ、欠けたものだけが意識に上る。
繰り返し叫ばれる言葉には、どこか不安や、願望が混じっているように聞こえてなりません。だから私は、言葉そのものよりも、その言葉がなぜ繰り返されるのかが、気になって仕方ないのです。
なぜ、それほど「平等」と言わなければならないのか。なぜ、それほど「誠実」と言わなければならないのか。
本当にそこにあるものなら、繰り返し言葉にして訴える必要はないはずです。そこにないからこそ、語るのではないでしょうか。そして時に、存在しないものであればあるほど、それを語る声は大きくなる。
もしかしたら、いのちの「平等」は、この世の中に存在しないのかもしれませんね。だからこそ、多くの人が声を重ねてきたのでしょう。
大きい声を聞けば聞くほど、気持ちが沈んでいきます。今夜は。