2026年8月18日
※文化時報2026年7月10日号の掲載記事です。
「その人らしさを支える」「尊厳を守る」。行政や医療・福祉の現場では、こうした言葉が当たり前のように語られます。私自身も長年、そう考えてきました。

ある日のカンファレンスで、こんな話し合いがありました。
「Aさんですが、どうしても一度、自宅へ帰りたいそうです。お体の状態を考えると厳しい面はありますが、できれば願いをかなえて差し上げたいのです」
主治医は少し考えてから言いました。
「…分かりました。リスクは高いですが、許可しましょう」
「よかった」
部屋には安堵(あんど)した空気が流れました。
誰もが、「Aさんらしさを大切にできた」と感じていたのだと思います。それがAさんの尊厳を守ることにもつながると、疑っていませんでした。
その後、Aさんと2人で話す機会がありました。
「家に帰れることになったよ」
私は「よかったですね」と返しました。
するとAさんは、口元をゆがめて、こう言ったのです。
「よくねえよ。なんで自分の家に帰るのに〝許可〟がいるんだ。俺は、もう誰かの許しがないと、なんにもできねえんだよ」
大きなつららで頭を殴られたような衝撃。
あのカンファレンスで私たちが感じていた満足感は、いったい何だったのでしょう。
私たちは「帰れること」に目を向けていました。
でもAさんは、「家に帰ることにも許可が必要になってしまった自分」を見ていたのです。
尊厳とは、本来、自分で守るものなのかもしれません。
自分で選ぶ。
自分で決める。
自分で動く。
それが人としての尊厳なのではないでしょうか。
私たちが向き合っているのは、「尊厳が失われるかもしれない人」ではありません。
すでに傷つき、すでに壊れてしまった尊厳を抱えながら生きている人なのです。
その現実を忘れたまま、「尊厳を守ります」と言うだけでは足りません。
私たちが問い続けなければならないのは、「壊れてしまった尊厳の上に立ちながら、人はどう生きていくのか」ということだからです。