2026年6月25日
埼玉県で最も大きな被害を出した空襲を知っていますか―。埼玉県東松山市の埼玉県平和資料館(埼玉ピースミュージアム)が戦後80年を過ぎた今、改めて注目を集めている。昭和初期から太平洋戦争終結までの資料を調査・収集・保存・展示する同館で、戦時下の一日を疑似体験し、平和の尊さを考えた。(飯塚まりな)
資料館は、比企丘陵の物見山に隣接し、森の中に溶け込むように建っている。船をイメージした館内には日差しが差し込み、ロビーの壁面には地元の高校生らが書いた「平和」と「創造」の文字を中心に、世界地図が描かれている。戦後80年の昨年は、県民を中心に約5万人が来場した。

案内するのは、主幹の大屋聡佐さん(52)と学芸員の鈴木一史さん(41)。大屋さんは学校向けのミニ授業「ピースガイダンス」を担当。毎年県内外から大勢の学生たちを受け入れ、戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えている。

終戦前日の1945(昭和20)年8月14日夜、埼玉県熊谷市が空襲に見舞われた。「熊谷空襲」だ。市街地の大半が焼失し、266人が命を落としたと記録されているが、県内で最も大きな被害を出した空襲だったにもかかわらず、県民にも十分に知られているとは言いがたい。
「これからの未来を生きる人たちに、当時の様子を身近に感じてもらいたい」と大屋さんは話す。
館内には、当時の国民学校の教室が復元されている。旧飯能市立北川小学校が元になっているという。2人がけで座るふた付きの机が整然と並んでいる。
着席すると、黒板の前にモニターが下り、終戦1カ月前の夏物語が始まった。教室にいる子どもたちと、男性教諭の姿が映しだされる。授業風景だ。

教諭の指示で児童が音読するのは「国民皆兵」。国民は等しく兵士として戦うべきだとの思想が、学び舎(や)に浸透していた軍国主義の時代だ。戦うことが名誉だと説く教諭の発言や態度は、現代の私たちに強い違和感や嫌悪感を抱かせる。
授業中、突如として空襲警報が鳴り響く。教室外に再現された防空壕(ぼうくうごう)へ逃げ込むと、頭上から「ヒュー」と風を切るような焼夷弾(しょういだん)の落下音が次第に近づき、赤い光が壕内を照らす。約15分の疑似体験だが、当時の人々が味わったであろう死の恐怖が、じわじわと胸に迫る。
小学生を対象にしたガイダンス時には、クラス全員が防空壕に入ることもあるという。中には怖がって入れない児童もいるが、実際に狭さや暗さを感じることも大事な体験だと大屋さんは語った。
防空壕を出ると、次は戦時中の復元住宅の様子が展示されている。ちゃぶ台に置かれた質素な食事。たんすの上に置かれたラジオ。空襲に備えてガラス片が飛び散らないようバツ印の紙を貼り付けた窓…。実は教室に入る前には昭和初期の住宅も展示されており、その落差が一目で感じられる仕掛けになっている。
展示の中で宗教・文化関係者の心に重く響くのは風船爆弾=用語解説=の模型だろう。直径10メートルに及ぶこの爆撃兵器は、各地で和紙を貼り合わせて作られ、米国本土に向けて飛ばされた。展示では、約7分の1サイズで再現されている。
埼玉県では、小川町の和紙が生産に用いられたという。卒業証書や写経などに使われる清らかな和紙が、かつて殺傷兵器の材料として用いられた事実は衝撃的だ。伝統技術が戦争に利用された悲しい歴史を、展示は静かに伝えている。

一方、熊谷空襲で落とされた焼夷弾の実物も見ることができる。一見するとさびた鉄の棒だが、米国の工場で大量生産されており、笑顔で作業している女性たちの写真も合わせて展示されている。
資料館には今も県民から遺品など資料の寄贈が続くが、劣化防止や保管場所の確保など課題も多い。
海抜147・5メートルの展望塔から眺める穏やかな関東平野。その風景を守り抜くために、私たちは「負の遺産」から学び続ける必要がある。

【用語解説】風船爆弾
太平洋戦争中に旧日本軍が開発した兵器。和紙を貼り合わせて気球を作り、水素ガスを充塡(じゅうてん)。偏西風に乗せて米国本土に爆弾を投下することを目的とした。日本全国で約9千個が作られ、約300個が北米大陸に到達したとされる。