2025年12月14日 | 2025年12月17日更新
東京大学の赤門近くにあるNPO法人わだつみのこえ記念館(東京都文京区)。太平洋戦争で出陣し戦死した学徒たちの手記を中心に展示している。戦後80年を迎えたいま、手紙や日記、絵などに残された「生きた証し」から、私たちは何を学ぶべきなのか。記念館を訪れた。(飯塚まりな)
わだつみのこえ記念館はマンションの1階部分にある。扉を開けると、理事長の渡辺總子さん(89)とボランティアスタッフの門脇愛さん(30)が笑顔で迎えてくれた。

2006(平成18)年12月に設立。運営は会費や寄付で行っており、ボランティアスタッフが常駐している。展示室は1931(昭和6)年の満州事変による中国大陸への侵略から45年の終戦まで、戦前から戦時中への移り変わりをたどる構成になっている。
他の戦争関連施設と違う点は、武器や戦闘中の写真がないことだ。戦没学生たちの遺影、経歴、書き残したもの、眼鏡などの遺品だけを展示している。中には朝鮮半島から日本に来て戦地に送られた学徒たちの遺稿や資料もある。
戦時中の空襲や戦後の混乱があったにもかかわらず、遺族や友人たちが大切に資料を保管し、記念館に寄贈した。
写真に写されたりりしい表情の学徒たちは、進学率3%程度だった当時の高等教育機関に在籍していたエリートたちだ。
「東大や京大などの学生が、戦争に対する苦悩を書き残しています。中には『戦争に何の倫理があるのだ』『軍部の大馬鹿野郎ー!』と日記につづる人もいました」。そう語る門脇さんも東大出身で、先輩である彼らの手記に長年触れてきた。

何人もの学徒たちの中でも印象的な手記を残していたのは、神風特別攻撃隊第1昭和隊員として戦死した佐々木八郎さん=当時(22)=だった。
佐々木さんはエッセーや詩集を数多く書いていた。「プラトニック・ラブ」は情熱的な詩で、当時、意中の女性がいたのかは不明だが、若いエネルギーが力強く伝わってきた。
1943年秋、東大経済学部から学徒出陣。翌12月には神奈川・横須賀第二海兵団への入団が決まった。
卒業時に宮沢賢治の『烏の北斗七星』を読んだ感想をエッセーに書き、クラス会で朗読していた。その中にはこう書かれている。
「宮沢賢治の烏と同じ様なものだ。憎まないでいいものまで憎みたくない、そんな気持ちだ」「正しいものには常に味方したい」「国籍の異なるといふだけで人を愛し、憎む事は出来ない」
セピア色の原稿用紙に、鉛筆でびっしり書かれた文字。さらに自ら赤字を入れて校正している。戦地に赴くことは死の宣告を意味していた時代。思いがあふれ、書かずにはいられなかったであろう純粋な心に、胸が詰まる。

44年には海兵団から第14期飛行専修予備学生に採用され、土浦航空隊に配属。9月、自ら戦闘機塔乗員を希望した。クラス会の朗読から1年もしない間に、厳しい訓練と過酷な状況に置かれて、心境が大きく変化していたとみられる。
そして45年4月、沖縄の海上で空に散った。
「わだつみのこえ記念館では戦死した英霊ではなく、学徒たちが身近な存在であり、一人の人間として向き合えるのです」。子ども時代に戦争を経験した渡辺さんは、そう語った。
記念館は原則月、水、金曜の週3回開館している。ボランティアスタッフは高齢化が進んでおり、ゆくゆくは次世代のスタッフを育成し、引き継がなければならない状況だ。

東大の現役学生たちは毎年、授業の一環で記念館を訪れ、レポートを提出しているという。
門脇さんも10年前に学生として見学に来たことをきっかけに、スタッフになった。今は他の博物館で働きながら、休日に記念館でボランティアを続けている。
「安心して引き継げます」と門脇さんを見つめる渡辺さんの言葉に、深い信頼があった。
東大のキャンパスには重厚なレンガ造の校舎が並ぶ。学徒たちもかつてここで勉学に励み、夢を語り合い、志半ばで去って敵国と戦った。
現在は、スマートフォンを見ながらうつむいて歩く学生たちが何人もいる。平和ではあるが、不思議な光景のように見えた。