2026年1月1日 | 2026年1月3日更新
福島県南相馬市小高区の株式会社相馬牧場は、羊肉と飼料作物の生産を行っている。2011(平成23)年の東日本大震災では、東京電力福島第一原発事故によって避難を余儀なくされ、人も家畜も行き場を失った。当時、180頭の牛を飼育して酪農を営んでいた4代目社長の相馬秀一さん(50)は、助けられなかった牛たちの命に何度も胸を押し潰されながら、牧場を再起させた。(飯塚まりな)
震災前に家々が建っていた場所が、今は更地になって一面にブタクサが生い茂っている。そうした地域に、相馬牧場はある。

2011年3月11日。余震が続く中、相馬さんは消防団員の一員として、人命救助に当たっていた。幹線道路の国道6号線は津波で水没し、海のようになっていた。
元々は田んぼだった場所に目をやると、湖面からスッと1本の手が上がっているのが見えた。
数時間前にも同じ道を歩いていたが、その時は見えなかった。急いで駆け寄ると、津波で流されてきた若い女性だった。きれいな状態で一瞬まだ生きているのかと思ったが、まるで自分の存在を見つけてもらえるよう、手を上げたまま亡くなっていた。
「人命救助が最優先でした」。牧場に残してきた牛たちを気にしながらも、相馬さんは救助活動を続けた。
12日に福島第一原発1号機の爆発があったと消防無線が知らせたが、その後「誤報」という情報が流れた。本当に爆発したことを知ったのは、しばらくしてからだった。

地元の商店街では、工具でガラスを破って店に侵入し、食料を盗まれる被害も出た。穏やかな日々が一瞬で壊され、人間の怖さを感じたという。
キャッシュカードが役に立たず、現金がなければ何も買えない。コンビニに立ち寄っても、歯ブラシ一本すら手に入れられなかった。
幸い牧場は大きな損壊がなく、このまま酪農を続ける気持ちでいた。
だか、16日に3号機が爆発し、避難指示が出たことで状況は一変した。
相馬さんは両親、祖母、妻と3人の子どもを連れて原町区の中学校へ避難した。翌17日、突然現れた避難用バスが、住民たちを次々と乗せていった。はっきりとした行き先が誰も分からなかった。
「牧場がなければ、行ったかもしれない」。相馬さんはバスを見送りながら、地元に残ることを選んだ。
その後は親戚の家に移った。すぐに自宅へ戻れると思っていたが、いっこうに避難指示が解除される気配はなかった。牛たちの乳搾りをすることが必要なので牧場へは通ったが、車のガソリンを入手するのにもひと苦労だった。
やがて餌を満足に確保できなくなった。週に1度様子を見に行くたびに、1頭ずつ命を落としていった。言葉にならないほどのショックを受けたが、どうすることもできなかった。
東京の農林水産省へ出向き、悲惨な状況を訴えたこともあったが「環境省へ行ってください」と、たらい回しされたことも。最終的に、南相馬市や保健所の職員が餓死した牛たちに石灰をまき、牛舎を片付けた。
一方、相馬さんはさらに遠方の福島県喜多方市に避難。郡山市へ牛乳配達の仕事をしに通うなど、家族と生きるための道を選ぶしかなかった。

牧場に戻れたのは震災から2年後。牧草の放射線量は牛に食べさせられないレベルで、除染が必要だった。
2015年、震災前から取り組んでいた作物作りを本格化させるめどがたち、飼料用のトウモロコシを育て始めた。ようやく希望が持てた。
再び牛を飼うことはせず、3頭の羊を迎えた。試行錯誤の日々を重ね、東京都内の有名なジンギスカン店と契約し、安定して生産できるまでに3年を要した。
また、羊以外にも小高の伝統行事「野馬追」で走る馬を育てるようになった。相馬牧場は、新しい牧場に生まれ変わった。
震災の記憶は忘れられない。地元の学校のプールで遺体を洗い、体育館に仰向けにして並べたこともある。今でもその学校には生徒が通っている。
「あの震災は、本当に日本で起きたこととは思えなかった。先進国でこんな光景を見るなんて、想像もできなかった」。相馬さんは羊の群れを見つめながら、ゆっくり口を開いた。

「僕らの世代は被災当時、30代後半で子育て中の人が多く、避難先に行ったきりほとんど戻ってきませんでした。寂しさもあるけれど、それぞれの生活があります。今はここで育つ子どもたちの将来が楽しみです」
明るく振る舞う様子から、過酷な体験をしたとはとても思えない相馬さん。だが、震災のことを語る目は真剣だった。
牛はいないが、羊や馬の元気な鳴き声が牧場に響く。相馬さんを後押ししているかのようだった。