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「文化時報」コラム

〈76〉伝説の刑事裁判官

2025年3月15日

※文化時報2024年12月13日号の掲載記事です。

 詩人の谷川俊太郎さんの訃報に接して前回のコラムを書いたのは11月21日のことだったが、まさにその日、刑事司法界の至宝ともいうべき人物がこの世を去っていた。8日後の29日、事務所に届いた1枚のファクス文書によって、その事実はもたらされた。

ヒューマニズム宣言サムネイル

 現役の刑事裁判官時代に30を超える無罪判決を言い渡し、控訴審で無罪の判断が覆されることなく全て確定させたことから「伝説の刑事裁判官」と呼ばれた弁護士の木谷明さんが、急性心筋梗塞のため亡くなったという。86歳だった。

 私が「木谷明」の名前を知ったのは、司法試験に合格し、司法修習生として研修を受けていた2004年のことである。司法研修所内の書店に平積みされていた木谷さんの新著『刑事裁判の心―事実認定適正化の方策』を、司法修習生たちがわれ先に争うように買っていた情景を今でも覚えている。

 しかし、そのときには「雲の上の人」のような存在に感じていた木谷さんと、私はその後大きく関わることになった。

 弁護士7年目となった私が初めて司法修習生の指導担当として事務所に迎えた修習生が、法科大学院で木谷さんの教え子だったというご縁で、私は木谷さんとメールのやりとりをさせていただくようになった。そして当時、鹿児島地裁の審理が閉塞状況にあった大崎事件第2次再審のことを気にかけ、ついには志願して弁護団に加入してくれたのである。

 当時75歳で、自らのことを「後期高齢者」と呼んでいた木谷さんだったが、フットワークは軽く、鹿児島での弁護団会議にも毎回東京から飛んできてくれた。弁護団会議後の飲み会にも必ず参加し、若い弁護人たちと楽しそうに談笑した。

 あるときの飲み会で木谷さんが語ったエピソードが忘れられない。木谷さんは囲碁棋士の木谷實九段の次男だが、幼い頃二つ年上の長男とよくけんかになった。賢い兄は、自ら弟にちょっかいを出しておきながら、けんかに気付いた母親が来ると「明にやられた」と泣きじゃくった。「また明ちゃんが乱暴したの?」と母親にとがめられた木谷さんは、何ともやりきれない気持ちになったという。

 検察官の有罪主張に対し、被告人の言い分を丁寧に聴き、冤罪を見抜いた裁判官・木谷明のぶれない姿勢は、子どもの頃に感じた理不尽に裏打ちされているのかもしれない。

 袴田巖さんに再審無罪判決が言い渡された9月26日、木谷さんは日弁連再審法改正実現本部の一員として静岡入りし、NHKのインタビューに答えていた。その日の夜、弁護団、支援者、実現本部のメンバーが入り乱れての祝勝会で乾杯したのが、木谷さんにお目にかかった最後となってしまった。

 再審法改正を強く望んでいた木谷さんに、法改正の実現を誓う年の瀬である。

【用語解説】大崎事件

 1979(昭和54)年10月、鹿児島県大崎町で男性の遺体が自宅横の牛小屋で見つかり、義姉の原口アヤ子さん(当時52)と元夫ら3人が逮捕・起訴された。原口さん以外の3人には知的障害があり、起訴内容を認めて懲役1~8年の判決が確定。原口さんは一貫して無実を訴えたが、81年に懲役10年が確定し、服役した。出所後の95年に再審請求し、第1次請求・第3次請求で計3回、再審開始が認められたものの、検察側が不服を申し立て、福岡高裁宮崎支部(第1次)と最高裁(第3次)で取り消された。2020年3月に第4次再審請求を行い、鹿児島地裁、福岡高裁宮崎支部に続いて最高裁が25年2月、請求を棄却した。

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