2024年7月17日 | 2024年8月7日更新
※文化時報2024年4月26日号の掲載記事です。
「江戸詰め」(長期東京出張)生活となって2カ月が過ぎた。早く京都に戻りたい気持ちに変わりはないが、せっかく東京にいるのだから、関西からはなかなか訪れることのできない土地に行ってみたい、と思い立ち、週末を利用して小旅行に出かけた。行き先は栃木県である。
最初に向かったのは足利市、名前の通り、足利氏ゆかりの地である。清和源氏の流れをくむ足利氏は、武家社会の台頭に大きな役割を果たした。鎌倉時代は幕府創設に尽力し、室町時代には将軍家となった。
その足利氏2代目の義兼が、邸内に持仏堂を建てて大日如来をまつったのが鑁阿寺(ばんなじ)である。本堂は国宝に指定されているが、もともとは足利氏の邸宅だったため、「日本100名城」にも選ばれているという珍しい寺だ。境内は満開の桜に彩られ、お堀にはカルガモ、鯉(こい)、亀などの生き物が仲良く共存しており、市民の憩いの場となっている。
もう一つ、著名な史跡が鑁阿寺に隣接する広大な敷地に残されている。足利学校である。平安初期に創設されたとされているが、起源には諸説あっていまだ特定に至っていないという。
室町中期に関東管領(かんれい)となった上杉憲実が学校を整備し、鎌倉五山の第2位である円覚寺の僧・快元を招くなどしたことにより、高等教育機関としての地位を築いた。1530年頃には、全国から入校した生徒数が3千人を超え、その名声は、この地を布教に訪れたフランシスコ・ザビエルが「日本国中最大にして最も有名な坂東の大学」と記したほどである。
足利長尾氏が豊臣秀吉の小田原征伐によって滅ぼされた後、いったんは庇護(ひご)者を失った足利学校だったが、その後徳川家康の保護も得て、江戸中期まで栄えた。しかし、時代の変化とともに徐々に衰退し、明治維新後に廃校となった。
その後、足利学校は地元の尽力により、江戸時代の繁栄期の姿に復元され、2015(平成27)年、日本遺産に認定された。
歴史と文化を誇り、「東の京都」「北の鎌倉」とも称される足利市だが、20世紀には暗い事件の舞台となってしまった。連続幼女誘拐殺人事件が発生し、なかなか犯人を検挙できずにいた警察が、善良で子ども好きな幼稚園バスの運転手だった菅家利和さんを犯人と決めつけて自白させ、当時は精度の低かったDNA鑑定を動かしがたい有罪証拠であるとして、無期懲役を言い渡した。世にいう「足利事件」である。
菅家さんは再審請求を行い、精度が格段に上がったDNA再鑑定によって「完全無実」が証明され、17年の服役の後に再審無罪となった。
今では、中学校の社会科の教科書に「冤罪(えんざい)」の実例として掲載されている足利事件。負の歴史を後世に伝えることもまた、教育の重要な役割であることを、かつてこの国の教育の中心地だった足利の地が教えている。
【用語解説】大崎事件
1979(昭和54)年10 月、鹿児島県大崎町で男性の遺体が自宅横の牛小屋で見つかり、義姉の原口アヤ子さん(当時52)と元夫ら3人が逮捕・起訴された。原口さん以外の3人には知的障害があり、起訴内容を認めて懲役1~8年の判決が確定。原口さんは一貫して無実を訴えたが、81年に懲役10年が確定し、服役した。出所後の95年に再審請求し、第1次請求・第3次請求で計3回、再審開始が認められたものの、検察側が不服を申し立て、福岡高裁宮崎支部(第1次)と最高裁(第3次)で取り消された。2020年3月に第4次再審請求を行い、鹿児島地裁は22年6月に請求を棄却。福岡高裁宮崎支部も23年6月5日、再審を認めない決定を出した。