2024年10月5日
※文化時報2024年7月12日号の掲載記事です。
もう20年近く前のこと、鹿児島で弁護士になったばかりの私に、「早稲田大学校友会鹿児島県支部」から支部総会の案内状が送られてきた。1985(昭和60)年に早稲田大学を卒業してから、すでに20年余りが経過していた。学生時代を過ごした首都圏から遠く離れた鹿児島に移住したこともあり、母校や学生時代の友人とはすっかり疎遠になっていたが、鹿児島にも早稲田大学のOB組織があることを知り、思い切って出かけてみた。
会場であるホテルの宴会場に着くと、中華料理の丸テーブルがいくつも並んでいて、かなり盛大な規模であることがわかった。新米弁護士の私がどぎまぎしながら自分の席を探すと、何と鹿児島県支部の支部長の席の隣に自分の名札があり、支部長の反対側の隣には、ゲストで招かれている早稲田大学総長の名前があった。
当時、鹿児島県弁護士会に所属する女性弁護士はわずか3人で、早稲田出身は私だけだったから、そのような待遇になったのかもしれないが、私は全身カチコチ状態で、ターンテーブルの料理を自分の皿に取ることなど、畏れ多くてとてもできなかった。
さて、私のもう片方の隣の席には「大迫一輝」と書かれた名札が置いてあったが、会食が始まっても、そこは空席だった。30分ほどたったころ、「遅くなって申し訳ありません」と頭を下げながら、大柄な男性が空席だった隣の席に座った。「大迫一輝」さんの到着である。
この顔、どこかで見たような気がする―と思いながらも緊張でなかなか切り出せず、とりあえず自己紹介をして当たり障りのない雑談を始めた私だったが、気が付くと大迫さんは、料理を取ることができず空のままだった私の皿に、数品の料理を取り分けてくれていた。
私が新顔であること、場違いな席に座らされて緊張していること、会食が始まってしばらくたつのに、まだ何も口にできていないことを、彼は瞬時に把握したのである。さらに私を驚かせたのは、春巻きを取り分けた小皿の縁に、練りがらしを添えるという細やかな心遣いだった。
次第に緊張がほぐれ、大迫さんの冗談に笑い転げていると、そこに早稲田大学の総長がやってきて、大迫さんに深々と一礼した。「先日は、表彰者にお渡しする記念品を制作いただき、本当に感謝いたします」というようなお礼の言葉を口にするのを聞いた瞬間、鈍感な私もさすがに「大迫さん」が誰であるかに気が付いた。
彼は「十五代沈壽官」と呼ばれている。400年続く薩摩焼の窯元の当主だ。鹿児島では「沈壽官」の名前を知らない者は、まずいない―。
その懐かしい「十五代沈壽官」に、先日、京都の映画館「アップリンク京都」で再会した。「ちゃわんやのはなし」というドキュメンタリー映画のスクリーンの中に、彼はいた。一子相伝で受け継ぐべき歴史、技術、魂の、想像を絶する重さについて語る彼の声が耳によみがえってきた。
【用語解説】大崎事件
1979(昭和54)年10 月、鹿児島県大崎町で男性の遺体が自宅横の牛小屋で見つかり、義姉の原口アヤ子さん(当時52)と元夫ら3人が逮捕・起訴された。原口さん以外の3人には知的障害があり、起訴内容を認めて懲役1~8年の判決が確定。原口さんは一貫して無実を訴えたが、81年に懲役10年が確定し、服役した。出所後の95年に再審請求し、第1次請求・第3次請求で計3回、再審開始が認められたものの、検察側が不服を申し立て、福岡高裁宮崎支部(第1次)と最高裁(第3次)で取り消された。2020年3月に第4次再審請求を行い、鹿児島地裁は22年6月に請求を棄却。福岡高裁宮崎支部も23年6月5日、再審を認めない決定を出した。