2024年10月17日
※文化時報2024年8月9日号の掲載記事です。
1598(慶長3)年、豊臣秀吉は2度目の朝鮮出兵を敢行した。秀吉が重用した千利休によって武家社会で茶の湯文化が花開く中で、朝鮮で作陶された高麗茶碗に高い価値が認められていた。当時の日本には高麗茶碗と同じレベルの焼き物を作る技術がなかった。
技術がないなら朝鮮の技術者を日本に連れてくればいい、そんな乱暴な考えで、朝鮮出兵に赴いた薩摩藩主・島津義弘は、かの地から陶工たちを薩摩の地に連行した。
今の言葉で言えば「拉致」である。その、拉致被害者たちの一人に、沈壽官家の初代となる沈当吉がいた。
当初は、陶土も釉薬(ゆうやく)も朝鮮から持ち込み、日本のものは、陶器を焼く「火」だけだった。その意味を込めて、当吉の作とされる「火計手(ひばかりて)」と呼ばれる作品が残っている。
陶工たちは、望郷の思いを抱えながら、生きていくために、薩摩の山野を巡り、作陶に適した土を探し、白土で焼いた美しい「薩摩焼」を生み出した。輝くばかりの白い肌が特徴の薩摩焼(白薩摩)は、薩摩藩の有力な産業となり、当吉の子孫たちは藩の手厚い庇護(ひご)を受ける一方、朝鮮の姓名と風俗の保持を命じられ、当主は代々「沈壽官」を名乗るようになった。
幕藩体制が終わり、明治の世になると、薩摩焼は海を越えた。十二代沈壽官が制作し、ウィーン万博に出品された大花瓶やロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式に献上された花瓶などの作品が、世界中で絶賛され、「サツマウエア」は日本陶器の代名詞となった。
しかし、日韓併合、第2次世界大戦という負の歴史の中で、朝鮮の名前と伝統を受け継いできた十三代、十四代はいわれなき差別と偏見にさらされる。その苦難の日々は、司馬遼太郎の短編『故郷忘じがたく候』に描かれている。
すでに日本国籍となり、日本人の氏名を持っていても、「朝鮮人」と後ろ指を指される祖父や父を見て育った十五代沈壽官こと大迫一輝さんは、アイデンティティーを探し求めてイタリア、そして韓国へと修業の旅に出る。
しかし、韓国の大学院の門をたたいたところ、そこで「400年の垢(あか)を洗い流してほしい」という信じがたい言葉を投げつけられる。
日本に連行され、艱難(かんなん)辛苦の末に築き上げた沈家代々の営みを全否定された十五代は、大学院を飛び出し、地方のキムチ壺(つぼ)工場で働き始める。厳寒の過酷な環境の中で黙々と働きながら、二つの国の狭間(はざま)で自分は何者であるかを考え続けたという。
10年後、薩摩焼発祥400年の節目に、十四代と十五代の親子は、日韓の人々をつなぐ壮大なプロジェクトを実現させた。かつて、日本の火だけを借りた「火計手」とは逆に、日本の土、釉薬、技術で制作した陶器を焼くのに、沈家の故郷韓国で起こした火を日本に運び、登り窯に点火したのだ。
歴代沈壽官の作品には、きらびやかな花鳥風月だけでなく、動物や昆虫、そして老若男女とりまぜた人々も登場する。そこに感じるのは国境や民族を超えた、おおらかで温かな「眼差(まなざ)し」である。