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「文化時報」コラム

〈13〉声にならない声

2025年7月13日

※文化時報2025年4月8日号の掲載記事です。

 自分自身がこれまでやってきた自傷行為を肯定するわけじゃないけど、自傷行為をするほかなかったあの頃の自分の気持ち。

生き直し―非行・自傷・依存と向き合って―サムネイル

 周囲の医療関係者や支援者、友人、家族からは「そんなに苦しいのなら声に出して!」「言葉にしないと周囲は分からないよ!」と言われた。自分の気持ちを言語化して伝えることの有用性が分かっていたら、そうしただろう。

 当時の自分は、自分という人間には価値がない、価値がない自分なんかが感じたことを話したところで誰も相手にしてくれない、と思っていた。結局、返ってくるのは「みんなも苦しんでるけど頑張って生きてるんです!」「自分だけと思わず、あなたも頑張って!」。自分の言葉や声なんて大切にされない、受け入れてもらえない。精いっぱい声を張り上げて伝えてきたことを、ひとつも理解しようとしてくれなかった。

 「あんたらの一般論で片付けられて、分かったつもりで返答される。声にするだけ無駄。声にしても聞き入れようとしない」

 そんなふうに感じてきた自分の心を、見ようともしてくれなかった。

 自傷行為は死にたい、苦しい、つらいという事実を、この身、この命をもって突き立てるすべだった。傷ついていく身体と精神。失われゆく命。それらを目の当たりにしなきゃ、あんたらは目を覚まさないだろう、と思っていた。

 命をかけた賭けであり、人一人が死んで初めて自分たちのしでかした過ちや責任の重さを感じさせられる―。もしかしたら「気付いてほしかった」というメッセージがあったのかもしれない。当時の自分にはかけらも感じられなかったけど。

 自傷行為を危険だとみなして閉じ込めたり、制止したりして禁じると、起こるのはそれ以上の激しい行為。命がけで、伝えようとする自傷行為まで阻止された人間に残るのは、その先の実行しかない。

 危険だからやめさせるのではなく、そうならざるを得なくなった自分自身を感じてほしかった、気付いてほしかった。誰も自分の身をそんなふうに扱いたくなかったはずなのだから。

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