2025年10月7日
※文化時報2025年7月8日号の掲載記事です。
変わりたい気持ちをもらえたのも、実際に変わるための行動を取れたのも、いつも仲間たちが俺と共にいてくれたからだった。

日本中、いや世界中に魅力あふれる仲間たちがいた。年末を米国カリフォルニア州のサクラメントで過ごし、カウントダウンが沸き起こる深夜0時には、マサチューセッツ州のボストンで大騒ぎするような、素面(しらふ)で、とんでもない仲間たち。何百マイルも車を走らせ、仲間に会いに来る奴(やつ)ら。
北米にとどまらず、英国、フランス、スウェーデン、オーストラリア、タンザニア、メキシコ、香港、とにかく世界中の仲間たちが、仲間に会うためだけに、世界を飛び回る。20歳やそれ以上の仲間もたくさんいたけど、15歳とか16歳ですでに酒をやめて1年や2年たつ、という仲間たちの姿は衝撃だった。
強烈なタフさとエナジーを爆発させながら生きているけど、依存症者として生きてきた悲しみや孤独を知るからこそ、今まさに、涙している仲間への素晴らしすぎる関わりがあった。
夜通し踊り狂う仲間たちは、踊る習慣のない俺の手を引き、みんなで、汗だくでダンスした。まるで鼓動を感じ合い、高め合うような感覚になった。
素面を目いっぱい一緒に生きようぜ!という力強い愛の手があるように見えた。言語や国籍、年齢、性別、あらゆる差異など関係ないぜ!という人間対人間がぶつかり合う熱が生じていた。怖さも恥じらいも捨てて飛び込めたのは、そこに、海よりも深い包容を感じたからだろう。
俺の中で、全てが変わった。素面はつまらないことでも、楽しさのほとんどを放棄した無価値な姿でもない。生きるエナジーに満ちあふれ、どんなときも、どんな状況でも生きられるんだという確信をくれた。
毎日毎日単調だったとしても、大したことができない日々でも、そこには確固たる何かがある。成長の喜びや、逃げ続けた何かと向き合っていると思える充足感もある。アルコールや薬では決して実現できなかった生きる満足がある。
それはきっと、目に見えた成功や素晴らしい舞台ではない。どんな毎日を生きても、たとえ一人で生きていても、いろんなことを感じたり、気付いたり、人生を味わったりする感じ。自らの人生を引き受けられるようになった自分自身を見つめながら、生きる今があるのだと思う。