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「文化時報」コラム

〈42〉写真集に見える世界

2023年8月13日 | 2024年8月5日更新

※文化時報2023年5月19日号の掲載記事です。

 50代後半のA氏は、ほんの数カ月前まで、世界中を飛び回るビジネスマンでした。1週間のうちの半分を機上の人として過ごすようなこともざらで、腰痛はそのせいだと思っていたそうです。定期的にかかっていた整形外科の医師から紹介状を渡され、他科を受診してから歩けなくなるまで「あっという間だった」と振り返ります。腰痛は、肺がんの転移巣が脊髄神経を巻き込んでいたためだったのです。

傾聴ーいのちの叫び

 ベッドに寝たきりとなってはいるものの、今のところ他の症状は何もないA氏は、あらゆる電子機器を持ち込んで病室をオフィスさながらにカスタマイズ。夜にはそこがバーとなり、世界各地のワインを楽しむ毎日です。

 「確定診断がついたのが1月後半でさ。良かったよ」。はて、なぜと問うと「年賀状の返事を出し終わっていたからさ。その前に分かっていたら『遅くなってすみません。来年は、たぶん出せないと思います』って書かなきゃならなかったからさ」と笑い飛ばします。そんなA氏を看護師たちも、達観している強い人と評価していました。

 人望も厚かったのでしょう。ひっきりなしに見舞いの品が届きます。プリザーブドフラワーに、高級なお菓子の数々。ある日、きれいな写真集がオーバーテーブルの上に置いてありました。

 思わず手に取りたくなり、A氏に許可をいただいてページをめくっていると「そんなもんを送ってきたんだよ。世界の美しい庭だなんて。ああ、ここも行きたかった。ここにも行ってみたかったって。でも、もう俺には行くことはできないんだってことを、突きつけてくるだけだ、そんなもん」

 全ての血が一瞬にして凍りつきました。この写真に心を惹かれたのは、そこに行く可能性が私にはあるから。A氏の見ている世界を、想像することすらできませんでした。

 己の浅はかさがほとほと嫌になり、こそこそとページを閉じました。持っていられないほど重い、重い、写真集でした。

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