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〈文化時報社説〉無関心にも程がある

2024年11月29日

※文化時報2024年10月18日号の掲載記事です。

 カトリック教会や一部の宗教者有志を除いて、宗教界とりわけ仏教界から声明発表などの反応がほとんどないのは不可解である。

社説・紙面
社説・紙面

 いわゆる袴田事件=用語解説=を巡り、静岡地裁は9月26日、強盗殺人罪などで死刑が確定した袴田巖さん(88)に再審無罪を言い渡した。文化時報が10月8日付の1面トップで報じたのは、宗教者に目を覚ましてほしかったからに他ならない。

 袴田さんは事件があった1966(昭和41)年に逮捕され、80年に死刑が確定した。実に58年間にわたって無実を訴え、そのうち44年間を死刑囚として生きてきた。あまりに理不尽な仕打ちを受けた半生に、もっと思いを致すべきではないか。

 一般紙ではあまり取り上げられてこなかった事実だが、袴田さんは死刑確定後に獄中でカトリックの洗礼を受け、「パウロ」の洗礼名を持つ。国内外の信徒たちは支援者となり、再審無罪を求めて活動を続けるとともに、祈りをささげてきた。信仰がどれほど支えになったことか、計り知れない。

 本来ならこれだけで十分、宗教界が袴田事件に関心を持つべき理由になるが、僧侶の方々にはもう一歩踏み込んで想像してほしい。

 袴田さんがもし仏教系の教誨(きょうかい)師と出会っていたら、さらに自分と同じ敬虔(けいけん)な仏教徒になっていたら、それでも同じように静観していられるだろうか。

 全日本仏教会は2019年12月、「仏教の教義と死刑が相いれないことは明白」とする社会・人権審議会の答申をまとめた。死刑制度に対する公式の反対表明ではなく、加盟教団の温度差を図らずも浮き彫りにした形だが、少なくとも仏教者同士や社会との間で議論を深めようという姿勢は示した。

 袴田事件は、無実の人の命を奪う過ちをすんでのところで回避した死刑再審の事案である。死刑制度の是非を考えるなら、合わせて冤罪(えんざい)被害についても関心を持つことが欠かせない。

 静岡地裁の再審判決は、自白調書や物的証拠を捜査機関による捏造(ねつぞう)と認定したが、その結論が出るまでこれほど年月がかかった原因は、裁判のやり直しを巡る再審法の不備に尽きる。

 再審のルールは現状、刑事訴訟法でわずか19条しか定めがなく、対応が裁判官の裁量に委ねられている。捜査機関による証拠開示が徹底されておらず、再審開始決定に対する検察官からの不服申し立てが許されていることが、いたずらな長期化を招いている。

 聖書にルーツがある「針の穴にラクダを通すより難しい」という比喩は、再審無罪のハードルの高さにも用いられてきた。再審弁護を専門とする弁護士たちの職人技に頼るしかなかった状況から脱する必要がある。

 神仏と異なり、人間の判断に誤りは付き物である。それを骨の髄まで知る宗教者たちにこそ、再審法改正を求める声を上げ、世論をリードしてほしい。

 検察側が控訴を断念したことで、袴田さんの無罪は確定した。まずは宗教者一人一人が袴田事件への無関心を排し、学ぶところから始めたい。

【用語解説】袴田事件

 1966(昭和41)年に静岡県で起きた一家4人殺害事件。強盗殺人罪などで起訴された袴田巖さんは公判で無罪を訴えたが、80年に最高裁で死刑が確定した。裁判のやり直しを求める再審請求を受け、2014(平成26)年3月に静岡地裁が再審開始を決定。袴田さんは釈放された。
 検察側の即時抗告によって東京高裁が決定を取り消したものの、最高裁が差し戻し。東京高裁は23年3月、捜査機関が証拠を捏造(ねつぞう)した可能性が「極めて高い」として、改めて再審開始決定を出し、検察側は特別抗告を断念した。再審公判で静岡地裁は今年9月26日、袴田さんに無罪を言い渡し、検察側は控訴せず、10月9日に無罪が確定した。

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