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「文化時報」コラム

〈2〉霊的な病

2025年1月27日

※文化時報2024年10月8日号の掲載記事です。

 自助グループのメンバーの一人として、兵庫県内の刑務所へメッセージを運んだときのことだ。電車に揺られながら向かう道中で、仲間といろいろな話をした。その中で言われたひと言が、今も心に残る。

生き直し―非行・自傷・依存と向き合って―サムネイル

 「私たちがもし講師料をもらって刑務所へ行っていたら、私たちの話は受刑者の心に響くやろうか? 多分響かないやろうね」

 実際、受刑者の中には外部から訪れた私たちと一緒にミーティングをして、疑問を抱く人もいた。

 「何のためにわざわざこんな辺鄙(へんぴ)な所まで、話をしに来るんですか?」「お仕事はされているんでしょうか?」

 これがいわゆる「仕事」なら、たしかに働いた分だけ給料という形で報酬を受け取り、責任を全うする形で刑務所を訪問するのだろう。

 なのに、自助グループの人たちは講師料を受け取らないだけでなく、仕事を休み、しかも交通費を自分で払ってまで刑務所に来る。相当暇なのか、相当ばかなのか、どちらかだろうと思われても不思議ではない。

 自助グループのメンバーが刑務所を訪れる動機から、目に見える報酬というものを一つ、また一つと除いていったとき、そこに残るのは「人が人を思う気持ち」なのだと思う。

 目に見えないけれど自分たちが無償でもらったものを、もらえないまま苦しみ続ける誰かがいるのなら、自分たちの経験したことを分かち合いたい。見返りをくれるから何かをするのではなく、見返りなどなくても行動したい。

 刑務所へ何度も何度も堕(お)ちる状況になった人たちには、人知れず裏切りに傷つき、人間不信になっている場合も多い。

 私たちが仕事として刑務所を訪問し、金銭的報酬を受け取っていたら、多分刑務所にまでいく羽目になった荒(すさ)んだ受刑者たちの心に、私たちの話は届かない。

 なぜなら仕事をして対価を得るだけで終わるからだ。

 私たちが大切にしてきた無償や無条件は、依存症という病の核でもあるスピリチュアルな痛みを癒やす。

 それは、受刑者たちが再生してゆく過程における大切な要素、なくてはならない原点でもある。

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