2025年12月17日
※文化時報2025年10月24日号の掲載記事です。
ある方をお看取(みと)りさせていただいてから、今日が2回目の命日でした。

一緒にお看取りをした仲間や、お世話になった方々から「今日は命日ですね」と連絡をいただいて、ようやく気がつく始末。実は、すっかり忘れていたのです。
その方のことは折に触れて思い出し、ぶつぶつ話しかけたりもして、いつもそばにいるように感じているのに、「命日」という〝日付〟だけは、てんで覚えていませんでした。
思い返すと、私の記憶の〝かたち〟は、どうやら一般的なそれと少し違うようです。結婚記念日なんて覚えていないどころかこれっぽっちの興味もなかったし、ましてや付き合い始めた日の記念日なんて意識にかすったことすらない。彼(亡き夫)の命日ですら、あやふやです。かろうじて子どもの誕生日は覚えていますが、自分の誕生日にいたってはまったく興味がありません。
世の中には、たくさんの記念日をきちんと覚えていて生活に彩りを添え、丁寧に日々を過ごしておられる方もいらっしゃるのに、私ときたら…。
そう考えると、彼も同じ〝人種〟だったのかもしれません。2人のあいだで結婚記念日が話題にのぼったこともないし、お互いの誕生日を祝ったこともありませんでした。けれど、それで波風が立たなかったのですから、まさに似た者夫婦だったのでしょう。
ただ、世の中的には、そうはいきません。一応僧侶の末席にいさせていただく身ですから、「命日」は忘れてはいけないのです。しっかり覚えていて、ありがたい話のひとつも添えられるのが本来の姿なのでしょうが―どうにも私には、うまくできません。
これは、配慮が足りない、努力が足りない、そういう次元の話ではないのかもしれない…と思いはじめています。たぶん私は、その部分の脳細胞が欠落しているのではないでしょうか―。「言い訳をするな!」。そうですね。はい。おっしゃる通りです。
さてさて、どうしたものでしょうね。深く反省することしきりです。