検索ページへ 検索ページへ
メニュー
メニュー
TOP > 『文化時報』コラム > かも弁護士のヒューマニズム宣言 > 〈14〉奇跡のプレゼントに…姉と弟(下)

読む

「文化時報」コラム

〈14〉奇跡のプレゼントに…姉と弟(下)

2022年12月16日 | 2024年8月28日更新

※文化時報2022年3月4日号の掲載記事です。

 袴田巖さんは、逮捕されてから、2014年3月の静岡地裁による再審開始決定に伴い釈放されるまで、45年以上もの間、拘置所に身体を拘束されていた。1980年12月に死刑が確定してからは、日々死刑執行の恐怖にさいなまれ、徐々に精神を病んで自分の世界に閉じこもるようになってしまった。

ヒューマニズム宣言サムネイル

 巖さんの両親は、息子の無実を信じ続けていたが、「巖はだめかいのう。だめかいのう」と繰り返しながらこの世を去った。そんな両親に代わり、弟を救出すると誓った姉のひで子さんは、結婚して自分だけが幸せな家庭を築くことを良しとせず、独身を貫いた。世間の冷たい目にさらされるストレスから、酒に溺れ、アルコール依存症寸前になったところで一切の酒を断った。

 「再審無罪になって巖が帰ってきても、すぐには仕事なんかできないでしょう。だからせめて賃料で生活ができるように」と、働いてコツコツ貯めたお金で浜松駅前にビルを建てた。静岡地裁の再審開始決定が東京高裁で取り消された時は、弁護団さえ言葉を失う中、「50年闘ってきたのですから、また50年闘うだけです」と気丈に振る舞うひで子さんの姿があった。

 しかし、長年の拘禁生活で精神をむしばまれた巖さんは、何よりも弟のことを最優先に生きてきたひで子さんに対しても心を閉ざした。ひで子さんが巖さんに面会しようと毎月拘置所に訪れても「自分には姉はいない」と面会自体を拒絶した。

 釈放され、糖尿病の治療などのための入院を経て、ひで子さんが巖さんのために建てた浜松のビルで、姉と弟が一緒に生活するようになってからも、巖さんは「姉なんかじゃない」「関係ない」とよそよそしい態度を取ることがあったという。

 それでもひで子さんは、弟の言動に一喜一憂するのではなく、何もかも受け入れておおらかに寄り添い続けた。その、穏やかな日常の積み重ねが、少しずつ巖さんの固く閉ざされた心を解かし始めている。

 ひで子さんの89歳の誕生日、巖さんは「秀子おめでとう 袴田巖」と自分でのし袋に書き、お金を入れて「これ」という一言とともにのし袋をひで子さんに差し出したという。弟から初めて贈られた「奇跡のプレゼント」に、ひで子さんは涙を流した。

 死刑冤罪(えんざい)という、あまりにも重すぎる十字架を共に背負って生きてきた姉と弟。再審無罪を勝ち取り、きょうだいの語らいが奇跡でなくなる日の訪れが待たれる。

【用語解説】大崎事件

 1979(昭和54)年10月、鹿児島県大崎町で男性の遺体が自宅横の牛小屋で見つかり、義姉の原口アヤ子さん(当時52)と元夫ら3人が逮捕・起訴された。原口さん以外の3人には知的障害があり、起訴内容を認めて懲役1~8年の判決が確定。原口さんは一貫して無実を訴えたが、81年に懲役10年が確定し、服役した。出所後の95年に再審請求し、第1次請求・第3次請求で計3回、再審開始が認められたものの、検察側が不服を申し立て、福岡高裁宮崎支部(第1次)と最高裁(第3次)で取り消された。2020年3月に第4次再審請求を行い、鹿児島地裁は22年6月に請求を棄却。弁護団は即時抗告し、審理は福岡高裁宮崎支部に移った。

同じカテゴリの最新記事

ヒューマニズム宣言サムネイル
〈66〉97歳の闘志

2024年9月19日

おすすめ記事

error: コンテンツは保護されています