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「文化時報」コラム

〈44〉立ち上がる人、支える人

2023年9月21日 | 2024年8月7日更新

※文化時報2023年7月7日号の掲載記事です。

 昨年秋、岐阜県弁護士会に招かれて講演した機会を利用し、私はどうしても訪れたかった場所に赴いた。岐阜県八百津町の「人道の丘」である。

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 そこには外交官・杉原千畝の記念館がある。千畝は1939年に開設されたリトアニア領事館の領事代理として、ナチスドイツの迫害から逃れるためにビザの発給を求めて領事館に詰め掛けた2千人を超えるユダヤ人たちに、「命のビザ」を発給し、家族を含め6千人余りを出国させた。

 千畝はビザ発給にあたり、外務省から許可を得るべく交渉を続けたが、ドイツとの同盟関係を模索していた本国は難色を示した。結局、千畝は、命の危機が迫っていたユダヤ人たちに人道的見地から独断でビザを発給した。その功績は今でこそ「日本のシンドラー」としてたたえられているが、国の意向に逆らったとして、帰国後外務省から退職勧奨を受け、その後は職を転々とする生活を余儀なくされた。

 しかし、彼は後年「外交官としてではなく、人間として当然の、正しい決断をした」と述懐し、この言葉を刻んだ碑が、千畝の母校である(ただし中退)早稲田大学に建てられている。

 岐阜の杉原千畝記念館で千畝の足跡をたどった私は、つい先日、今度は千畝が発給したビザを携えたユダヤ人たちが上陸した福井県敦賀市を訪れる機会を得た。ユダヤ人たちは、敦賀でひと時の休息をし、市民から温かいねぎらいを受けた後、アメリカなどの第三国に向けて出発していった。敦賀港には、この出来事を伝えるための博物館「人道の港 敦賀ムゼウム」がある。

 ムゼウムの中で、とりわけ心を動かされた展示があった。ユダヤ人たちはウラジオストクから天草丸という汽船で敦賀を目指したのだが、二十数回にわたるこの搬送業務を担ったのが、JTB(当時のジャパン・ツーリスト・ビューロー)だった。民間会社であるJTBも、政府の意に反する業務を担うことに躊躇(ちゅうちょ)したが、最後は「人道的見地から引き受けるべきだ」との結論に至ったという。

 JTBの添乗員・大迫辰雄は、天草丸に多数回添乗し、ユダヤ人たちの世話を親身に行った。感謝したユダヤ人たちは自らの顔写真を大迫に託した。ムゼウムにはその写真を集めたアルバムが展示されているのだ。

 杉原千畝の名は世界に広く知られているが、大迫辰雄はどうだろうか。少なくとも私は今回の敦賀訪問で初めて彼の存在を知った。

 さまざまな偉業で歴史に名を残した人は、もちろん尊敬に値するが、崇高な志を持ち「立ち上がった人」を、陰になり日なたになり物心両面で「支えた人」たちの存在がなければ、その偉業が成し遂げられることはなかっただろう。今更ながら、「支える人」たちに思いを致したい。

【用語解説】大崎事件

 1979(昭和54)年10 月、鹿児島県大崎町で男性の遺体が自宅横の牛小屋で見つかり、義姉の原口アヤ子さん(当時52)と元夫ら3人が逮捕・起訴された。原口さん以外の3人には知的障害があり、起訴内容を認めて懲役1~8年の判決が確定。原口さんは一貫して無実を訴えたが、81年に懲役10年が確定し、服役した。出所後の95年に再審請求し、第1次請求・第3次請求で計3回、再審開始が認められたものの、検察側が不服を申し立て、福岡高裁宮崎支部(第1次)と最高裁(第3次)で取り消された。2020年3月に第4次再審請求を行い、鹿児島地裁は22年6月に請求を棄却。福岡高裁宮崎支部も23年6月5日、再審を認めない決定を出した。

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