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「文化時報」コラム

㊼わかれ

2023年10月30日

※文化時報2023年8月25日号の掲載記事です。

 その日は突然やってきた。

 8月12日の夕方、鹿児島の老健施設から、母が午後5時51分に息を引き取ったと電話で伝えられた。前日の連絡では、発熱してやや呼吸が苦しそうだが、血圧も血中酸素濃度も正常なので、個室に移して点滴を打ちながら様子を見るという話だったので、「すでに亡くなった」という一報を、現実のものとして受け止められなかった。

ヒューマニズム宣言サムネイル

 翌日の早朝、京都から鹿児島に飛び、母の亡骸(なきがら)と対面してもまだ、「母の死」という実感が持てないまま、分刻みで葬儀の段取りを決め、老健施設、銀行、役所などを慌ただしく回って諸手続きを行った。そして、親族と母の親しい人のみの、つつましくも温かい通夜と葬儀を執り行い、母は棺(ひつぎ)を埋め尽くす色とりどりの花々に包まれて旅立っていった。自分の親をこのように言うのも何だが、息をのむほど美しい死に顔だった。

 母は旧満州の生まれ。父親が満州鉄道の助役だったため、満州ではそれなりに裕福な生活をしていたようだが、敗戦で状況は一変、命からがら一家で本土に引き揚げ、鹿児島や福岡を転々とした。そのような中、転校直後に中学の生徒会長に選ばれたり、高校では県下の英語弁論大会で優勝したりと、華々しく活躍していたという。

 高校のとき、一家の生活を少しでも楽にさせようと、アメリカ人宣教師の家に住み込みで働き、卒業後は上京して全寮制のキリスト教神学校に進んだ。そこで宮崎の教会の牧師だった父と出会い、結婚。母は教会を離れ会社員となった父と共に、横浜で新婚生活を始めた。

 ほどなく長女の私が生まれ、貧しいながらも幸せな毎日を送った。しかし、弟が知的障がいをもって生まれたことで、その子育てに大変な苦労を重ねた。弟が就学年齢になったとき、障がい児教育が進んでいるから、と横浜から鎌倉に転居。週末ごとに、弟の体力向上を兼ねつつ、一家で鎌倉の山や寺社を歩き、四季折々の風景を愛(め)でることが母の楽しみとなった。

 父は48歳で肝臓がんのため早逝、弟を連れて故郷の鹿児島に帰った母は、かつて培った英語力を武器に、学習塾の英語講師として10年以上勤め、私たち夫婦が鹿児島で母と同居するようになってからは、再び家庭に入り、家事と孫の世話を一手に引き受けた。私が子育てをしながら司法試験に合格し、弁護士として存分に稼働できたのは、全て母の存在あってのことだった。

 4年前に自宅前で転倒して大腿(だいたい)骨を骨折し、それが元で寝たきりとなり、折からのコロナ禍で家族との面会もままならず、心身ともに急速に衰えてしまった。

 波瀾(はらん)万丈の母の人生の最期に立ち会えなかったことは痛恨の極みである。でも、その償いは、私が私の人生を全うすることでしか果たせない。

【用語解説】大崎事件

 1979(昭和54)年10 月、鹿児島県大崎町で男性の遺体が自宅横の牛小屋で見つかり、義姉の原口アヤ子さん(当時52)と元夫ら3人が逮捕・起訴された。原口さん以外の3人には知的障害があり、起訴内容を認めて懲役1~8年の判決が確定。原口さんは一貫して無実を訴えたが、81年に懲役10年が確定し、服役した。出所後の95年に再審請求し、第1次請求・第3次請求で計3回、再審開始が認められたものの、検察側が不服を申し立て、福岡高裁宮崎支部(第1次)と最高裁(第3次)で取り消された。2020年3月に第4次再審請求を行い、鹿児島地裁は22年6月に請求を棄却。福岡高裁宮崎支部も23年6月5日、再審を認めない決定を出した。

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