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「文化時報」コラム

㊾負の歴史とともに

2023年11月23日

※文化時報2023年9月29日号の掲載記事です。

 9月初旬、私は36年ぶりにヨーロッパを訪れた。龍谷大学刑事司法・誤判救済研究センターの発案による二つのイベントに登壇するためである。日本の死刑と再審の現状を、欧州の法律家にも広く知ってもらうことが目的だった。

ヒューマニズム宣言サムネイル

 最初のイベントは、ドイツの首都ベルリンのフンボルト大学で開催されたワークショップだった。海外の研究者の前での報告は、口から心臓が飛び出しそうなほどの緊張を強いられたが、その場所、そのメンバーでなければ起こり得ない化学反応のような議論の展開に、大いに刺激を受けた。

 ワークショップ前日の朝、2時間ほどベルリンの街を徒歩で散策した。

 ベルリンは1871年、プロイセンが統一したドイツ帝国の帝都となり、第1次世界大戦で帝国が崩壊した後も、先進的な民主憲法で知られるワイマール共和国の首都として繁栄した。しかし、ナチスドイツの台頭とホロコースト、そして第2次世界大戦を経て再び敗戦国となったドイツは東西に分割され、ベルリンも東ドイツの首都になった東ベルリンと、西ドイツの飛び地である西ベルリンとに分断された。

 1961年、一夜にして築かれた「ベルリンの壁」は長らく東西冷戦の象徴だったが、89年のベルリンの壁崩壊を契機としてドイツが再統一されると、ベルリンは統一ドイツの首都となった。まさに分断、戦乱、統合という激動の歴史を生き抜いた街である。

 ベルリン中心部の大通り、ウンター・デン・リンデンを歩くだけで、次々に現れる歴史的建造物に圧倒される。これらの建物は第2次大戦中に多くが爆破されたが、統一後に再建が進み、今なお工事が続いている。

 一方で目を引くのが、「負の歴史」を伝える数々のモニュメントである。

 フンボルト大学前のベーベル広場では、ナチスドイツ時代に「非ドイツ的」とされた書物が大量に燃やされた(焚書)。広場の一部がガラス張りとなっており、そこから、地下にある空っぽの本棚が見える。燃やされた2万冊の本を忘れないためのモニュメントである。横にはハイネの詩の一節「本を焼くものは、ついには人を焼くことになる」が刻まれた石が置かれている。

 ベルリンの一大観光スポットであるブランデンブルク門のすぐ近くには、2711本ものコンクリートブロックの柱が並んでいる。「ユダヤ人犠牲者記念館」である。無機質な空間が、そこを歩く者に、人類が経験した過去を直視せよと迫っているように感じる。

 「負の歴史」を日常の中に置き、ともに生きようとするベルリンの街で、虐殺や差別、冤罪といった「不都合な過去」から目を背け、なかったことにしようとする、どこかの国の罪深さを思った。

【用語解説】大崎事件

 1979(昭和54)年10 月、鹿児島県大崎町で男性の遺体が自宅横の牛小屋で見つかり、義姉の原口アヤ子さん(当時52)と元夫ら3人が逮捕・起訴された。原口さん以外の3人には知的障害があり、起訴内容を認めて懲役1~8年の判決が確定。原口さんは一貫して無実を訴えたが、81年に懲役10年が確定し、服役した。出所後の95年に再審請求し、第1次請求・第3次請求で計3回、再審開始が認められたものの、検察側が不服を申し立て、福岡高裁宮崎支部(第1次)と最高裁(第3次)で取り消された。2020年3月に第4次再審請求を行い、鹿児島地裁は22年6月に請求を棄却。福岡高裁宮崎支部も23年6月5日、再審を認めない決定を出した。

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