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「文化時報」コラム

〈56〉巨星墜つ

2024年2月26日

※文化時報2024年1月26日号の掲載記事です。

 地震、航空機事故と続いた年明けの重い気持ちが、さらに暗く沈む訃報に接した。現在静岡地裁で再審公判の審理が行われている袴田事件の弁護団長・西嶋勝彦さんが1月7日に急逝したのだ。

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 西嶋さんは、1965(昭和40)年に弁護士となった。所属した事務所は、新人弁護士には必ず重大冤罪(えんざい)事件の弁護を経験させる方針だったそうで、弁護士1年生の西嶋さんが担当することになったのは八海事件だった。

 八海事件とは、高裁の判決(1回目は死刑、2回目は無罪)が2度も最高裁で差し戻され、3度目の上告審で最高裁が自ら無罪判決を下すという異例の展開をたどった事件である。『真昼の暗黒』というタイトルで映画化され、ラストシーンの「おっかさん、まだ最高裁判所がある。最高裁があるんだ」というせりふが有名になった。

 八海事件の3度目の上告審の弁護団の一員となって無罪判決を勝ち取った後、西嶋さんは、仁保事件、徳島ラジオ商事件、丸正事件といった日本の刑事裁判史上に残る冤罪事件の弁護を手掛けた。そして、「死刑4再審」(80年代に相次いで死刑囚が再審無罪となった、免田、財田川、松山、島田の各事件)の最後となる島田事件の再審弁護を行っているときに、同じ静岡で発生した死刑冤罪事件である袴田事件の弁護団に入ってほしいと依頼された。西嶋さんは、89年に島田事件が再審無罪で終結すると、すぐに袴田事件の弁護団に合流したという。

 数多くの無罪、再審無罪を勝ち取った西嶋さんだったが、袴田事件では弁護団加入から20年近く奮闘するも、第1次再審は2008(平成20)年に最高裁で棄却された。

 第2次再審では14年に静岡地裁で念願の再審開始決定がされたが、検察官の抗告により一度は東京高裁で取り消され、さらにその決定が最高裁で破棄差し戻しとなる紆余(うよ)曲折を経た。昨年3月、差し戻し後の東京高裁による再審開始が確定したとき、記者会見の途中で言葉に詰まり、涙を流した姿が目に焼き付いている。

 昨年10月から始まったやり直しの裁判は今年5月に結審の見通しとなり、この夏にも袴田巖さんに再審無罪がもたらされる公算となった。そのゴールを目の前にして力尽きた無念はいかばかりか。

 5年ほど前から間質性肺炎を患い、再審公判に出頭するため酸素吸入しながら車椅子で静岡地裁に通っていた西嶋さん。今年の年賀状には「小春日に 駿河路通い 車椅子」という自作の句が添えられていた。

 享年82歳。袴田事件の弁護人になったのは48歳のときだった。再審制度の不備で犠牲になるのは、冤罪被害者やその家族だけではない。再審弁護人の壮絶な人生そのものが、法改正の必要性を叫んでいる。

【用語解説】大崎事件

 1979(昭和54)年10 月、鹿児島県大崎町で男性の遺体が自宅横の牛小屋で見つかり、義姉の原口アヤ子さん(当時52)と元夫ら3人が逮捕・起訴された。原口さん以外の3人には知的障害があり、起訴内容を認めて懲役1~8年の判決が確定。原口さんは一貫して無実を訴えたが、81年に懲役10年が確定し、服役した。出所後の95年に再審請求し、第1次請求・第3次請求で計3回、再審開始が認められたものの、検察側が不服を申し立て、福岡高裁宮崎支部(第1次)と最高裁(第3次)で取り消された。2020年3月に第4次再審請求を行い、鹿児島地裁は22年6月に請求を棄却。福岡高裁宮崎支部も23年6月5日、再審を認めない決定を出した。

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