2025年10月9日
東京都練馬区の宮本幸子(ゆきこ)さん(44)は4年前から埼玉県の看護専門学校で教員を務めている。長年、看護師として医療現場に立ち続け、3人の子どもを育てる母親でもある。自身の葛藤や子育ての悩み、そして患者たちと接する中で向き合った「穏やかに生きること」や「死生観」について尋ねた。(飯塚まりな)
医療現場は今、「地域在宅看護」の時代を迎えている。これまでの医療は、病院で治療する患者のみを主眼とする「病院完結型医療」だったが、高齢化が進むにつれて、暮らしの中で支えるケアへと広がっている。
宮本さんは、地域在宅看護を専門に講義を行っている。
教員になる前は、訪問看護師として働いていたが、患者のさまざまな病状や生活環境を知る中で、自分自身が思ってきた看護の在り方について、少しずつ疑問を持つようになった。

宮本さんは子どもの頃から、人の気持ちを考え、気遣うことが自然とできた。当時は「ケア」という言葉を知らなかったが、看護師になれば人に寄り添う仕事ができると漠然と思っていた。
高校卒業後は医療事務を学んだり、介護職に就いたりと遠回りをした。だが、「あなたは看護師になった方がいい」と職場の看護師に背中を押され、2006(平成18)年に25歳で看護師になった。
都内の大学病院で勤めたが、鳴りやまないナースコールや増え続ける残務にプレッシャーを感じていた。自身は要領の悪い方だと思っており、自分の看護に自信が持てず、いつも不安を抱えて働くつらさがあったという。
その後、結婚・出産で病院を退職。専業主婦になるとほっとしたが、今度は子育てと家事に追われ、精神的に追い詰められた。子どもをしかりつけ、「いい母親になりたい」という気持ちが先行し、思い通りにはならない自由奔放な子どもたちを前に、自分自身の生きづらさを感じた。
2人目を出産した後、夫に相談し、看護師として復帰することを決めた。預ける保育園がなかなか決まらなかったが、近隣の訪問看護事業所で勤務した。
自転車に乗って高齢者の自宅を訪問する生活は、新鮮でやりがいを感じた。
だが、家に上がると真っ暗な部屋で着替えもできず、失禁している女性や、認知症で一人寝たきりの男性など、支援がなければ命が危うい現実を目の当たりにしたこともあった。

病院と違い、家の中での様子は外からは見えにくい。これまで「この人には理解力がないから、健康にならない」と批判的な目で患者を見ていたことに気付かされた。「看護師でありながら、患者の気持ちやどんな環境で生活をしているのか深く知ろうとしていなかった」と、自分の浅はかさを恥じた。
たとえ最適な設備や環境が整っていなくても、今何ができるのか考えるのが看護の本質だと宮本さんは思った。
一方、病院から退院して、栄養指導や薬の飲み方を教わっても、思うように実行しない高齢者がいた。それでも自宅でリラックスし、その日その日をのんびり過ごしている。入院していた頃よりも幸せそうな表情さえ浮かべている。
そんな患者と接するたびに、宮本さんは「こういう生き方もあるのか」と考えるようになった。仕事上、看護のルールに沿って的確な処置を施すが、「こうしなければならない」という凝り固まった考えは、少しずつ変化した。
「それまでは『治す』ことだけに視点が行きがちでした。でも、看護の考え方は治療だけではない。もっと自分らしく生きられるようにと思えるようになりました」
2019年、仕事量を減らしながら、価値観を見直して心理学を学び始めた。そこで「自分の視点を変えて物事を見る」ことの大切さを痛感し、死生観について関心を持つようになった。
「自分の考えを立て直すことで、看護に生かせる」と、気持ちが明るくなった。すると、思わぬところから看護専門学校での教員職を紹介され、思い切って挑戦することにした。

学生は過去の自分と同じように、真剣に勉強はするが、どことなく自信がない様子だった。実習や講義の中で問いかけても、自分の考えではなく、先に正解を知ろうとする学生が多い印象を受けた。
仮に技術や知識が完璧だったとしても、地域在宅看護はその域を超える。
学生には、移りゆく情勢の中で看護の役割も変わってきていることや、「暮らしの全体像」を見ること、寄り添う気持ちや柔軟性を大事にする意識を持たなくては務まらないことを伝えるようになった。
宮本さんには、夢がある。個人的な活動として、大切な人を失った人に寄り添うグリーフ(悲嘆)ケアを始めたいと考えている。すでに埼玉県飯能市で月1度開催されている、がん患者や家族のためのカフェ「ほっこりカフェ」を友人と共同で運営している。

「家族や大切な人が亡くなり、何年たっても、悲しみから立ち直れない人もいます。一度の面談や儀式で終わるものではなく、話すことで心が楽になったり、『あの人と過ごした日々』を再び思い出して前向きになれたりする。そんな場を持てたらいいですね」
これからも看護師、教員、母として、人の生と死を支える看護を模索し続けていく。