2025年11月28日
※文化時報2025年9月26日号の掲載記事です。
遅ればせながら、サンガに数百の戒がある意味が腑(ふ)に落ちたような気がします。
たとえば、いつも清潔な服を身に着ける。そのために、ある人は洗濯機を使って毎日洗う。ある人は1週間に1回洗う。ある人は、汚れた服は捨てて新しい服を買う。ある人は、新しい服を他人から奪う。

本来、「いつも清潔な服を身に着ける」方法は、星の数ほどあります。けれども、他者と一緒に暮らそうとするなら、てんでばらばらにそれぞれの方法でやったのでは不具合が出る。感情の摩擦も起こる。
そこで戒を定めて「この場合はこうすること」と決めました。当然のことながら「こうやった方がもっと効率的だ」「こんな方法は私には合わない」と不満も出るでしょう。もともと無限に方法があるのだから、実にあたりまえのことです。
多少面倒な戒でも、この場で暮らそうとするなら守らなければなりません。戒は「唯一最善の方法」ではなく、「摩擦を最小化し、心の向きをそろえるための取り決め(方便)」だからです。
もし戒に従わず自分の方法を貫きたいなら、この場から出ていくか、関わる人々の承諾をとって戒を変えるしかありません。とてもシンプルです。
あなたとわたしの戒。家の戒。町会の戒。学校の戒。職場の戒。市区町村の戒。都道府県の戒。日本の戒。世界の戒。宇宙の戒。
気になるのは、その戒が何に基づいて誰に決められたものなのか、ということです。戒の根底に流れる思想が、弱い者も強い者も一緒に暮らそう、困っている者には手を貸そうという「慈・悲・不害」に立脚しているのか。それとも、弱い者は排除されても仕方がない、困ってしまうような無能は必要ないという「淘汰(とうた)と効率」に拠(よ)っているのか。
仏陀(ブッダ)の思想に基づいた戒は、清い。清さとは、「誰ひとり傷つけない方向へ皆の心をそろえる」ための基準がそこに通っているということ。
果たして今、私たちの周りにある戒は、何を土台にしているのでしょうか。