2026年4月2日
※文化時報2026年2月20日号の掲載記事です。
「死にたい」と言われたら、なんと受け答えすればよいのでしょう。

そんなご質問を、たびたびいただきます。本当に、どうしたらよいのでしょう。
もちろん死んでしまうことを良しとはしがたい。けれど、いったい何があったのかよく知りもしないのに、やみくもにダメだと言い切るのもどうなのだろう。しかし…。いくら考えても、答えは見つかりません。
「寄り添う」なんて言葉も、ときに茶番に聞こえる。この問いをいただくたびに、一緒に迷い、悩むことしかできない己を自覚するのみです。
ところが先日、「こんなふうに答えましょう」というマニュアルを拝見しました。
A:「死にたいんです」
B:「死にたいほど、おつらいんですね」
A:「死にたいんです」
B:「少しでもお気持ちを楽にするお手伝いをしたいと思っています」
A:「死にたいんです」
B:「今、何が一番おつらいか、聞かせていただけますか」
会場に「なるほど」という安堵(あんど)と、ペンを走らせる音が広がります。そんな中で、ひとり私は胸をざわつかせていました。Bさんがやっていることは、
①「死にたい」を自分の扱える感情ラベリングで回収する。
②「死にたい」を解決可能な問題へと設定変更し、主導権をこちら側へ移す。
③「何が一番つらいか」と因果構造を与え、シンプルな問題解決モデルへすり替える。
つまりそのすべてが、沈黙と不確かさに耐えられないこちら側の不安処理なのではないか。そんなふうに感じたのです。
スピリチュアルケアの立ち位置は、解決しないことを引き受ける。意味が崩れている場所に、共に立つ。問いを閉じることなく、開いたままでいられる関係を保つ。「わからなさ」に対し、共に耐える姿勢を示す。
そう思うと、とてもBさんのような言葉を、私には発することができません。
ああ、私、天邪鬼(あまのじゃく)すぎるのかな。幼いころ、よく母に「屁理屈ばかりこねるんじゃない」と叱られたものです。三つ子の魂百まで…ということなのでしょうか。