2026年3月15日
※文化時報2026年2月6日号の掲載記事です。
子どもを事故や自死で亡くされた親御さんが「私のせいです」と言う場面に、私は何度も立ち会ってきました。

その自罰的な言葉を聞いた周囲は、たいてい慌てふためきます。「そんなことはありません」「あなたのせいではない」と、打ち消そうとします。でも、その言葉が、その人を楽にしている場面を、私はあまり見たことがないのです。
世の中には、理由が分からない出来事がたくさんあります。なぜその瞬間だったのか、なぜ防げなかったのか、いくら考えても答えは出ません。把握しているつもりだった世界が、突然、説明不能なものになる。その前に立たされたとき、人は正気を保つのが難しいようです。なぜなら「なんで?」「どうして?」を抱え続けることは、想像以上に過酷だからです。
だから人は、「私のせいだ」と言うのではないでしょうか。
世界が無秩序であることを、直視しきれないから、原因を自分が引き受ける。引き受けてしまえば、出来事は一応、因果の形を取る。痛みは強くなるが、世界はばらばらにならずに済む―。
では、「自分のせいだ」と言えば楽になるのかというと、決して楽ではありません。ただ、壊れにくい。散乱しない。心がぎりぎり踏みとどまれる形なのだと感じるのです。
だから私は、その言葉を急いで正そうとは思いません。
それは真実かどうかを問う言葉ではないのです。また、やみくもに自分を罰しているわけでもない。生き延びるために、その人が今、そこに立っている意味を示す言葉なのだと思うのです。
スピリチュアルケアとは、結論を動かすことではありません。その人が出した結論の上に、一緒に立てるかどうかだと思っています。
「あなたのせいではない」と言う前に、その人がなぜ「私のせいだ」と言わなければならないのか。そこに耳を澄ますことから、スピリチュアルケアは始まるのだと思っています。