2025年3月9日
※文化時報2024年11月5日号の掲載記事です。
名刺が1枚あれば、初めて出会った人を前にしても自分が何者かを説明できる。社会において私がどういう立場で何をしている人間なのかを、社会が説明してくれることになるので、ある程度信用してもらうことが可能になる。
依存症という病を考えたとき、例えばアルコール依存症なら酒を飲んで暴れたり暴言を吐いたりするだけでなく、たくさんの関連問題がある。
行動の核の部分には、飲酒に対するコントロール障害と強迫的な飲酒欲求があるのだが、それが原因で家に入れる金を使い込んだり、家賃を滞納したり、無断で遅刻や欠勤を繰り返してしまったり、噓(うそ)をついたり、人を裏切ったり…などと、さまざまな二次的問題が起こる。そして結果的に職を失い、家族を失い、家を失っていく人たちがいる。
さらに依存症は、生きていく上で役立つ肩書を失わせていくだけでなく、前面に出すと不利益を被るような経歴、例えば前科があるとか精神科病院への入院歴があるとか、履歴書一つも書けないような経歴ばかりにさせていく。
社会で生きていこうとしたとき、生きていく助けになるものは失われ、逆に隠さなければいけないものばかりになっていくのが、現在の依存症者のリアルでもある。
支援の現場で、こんなエピソードがあった。休日明けのある日、事業所でミーティングをしたところ、ある利用者が「昨日は事業所がお休みやったから、一日中近所の公園を歩いていた」と話した。
最初は散歩が好きな人なのかと思っていたが、だんだん分かってきたのは、物理的な肉体はまちの中にあるのに、行ける場所や会える人がいない、ということだった。
物理的には社会の中に生きていても、誰とも何とも接点がない。「社会に生きる」とは、関係性の中に生きることだから、あらゆる関係性の絶たれたその人のことを、周囲の私たちは本当に社会に生きていると思っていいのだろうか。
さまざまな事件が起こってきたから仕方ない面があるとはいえ、どこの誰だか分からない人には声をかけられてもついていかないようにとか、知らない人を不審者扱いする風潮が、誰かを苦しめたり、追い詰めたりすることがあるのではないか。そのことを、忘れないでいたい。