2025年4月9日
※文化時報2024年12月2日号の掲載記事です。
精神科病院への入院を繰り返していた頃の私は、よく医療者から「あなたは他者とうまく境界線を引けていない。距離感が近すぎる」と指摘された。
当時の私にとってその言葉は、自分がその人から嫌われている、負担に感じられている―と思えて、怖くて仕方なかった。
確かに女性の看護師さんやソーシャルワーカーさんにラブレターのようなものを書いて受け取ってもらおうとしていたので、自分でもうすうすは分かっていたのかもしれない。
ただ、当時の私は10人の患者さんのうちの1人として大切にしてもらえているだけでは満足できずに、どうしても個人的なつながりを作ろうとしていた。
10人の患者さんのうちの1人として大切にされることは、仕事を通した関わりであるということだ。私はそうではない接点を求めていた。
仕事を離れてもなお私に関心を持ち、私と一緒にいたいと思ってほしい。その証しが欲しかった。
境界線について自分事として初めて考えたのは、刑務所で服役していた3年間の日々だった。
最初の1年半は雑居房という集団の部屋にいて、残りの1年半は独房でずっと生活していた。朝から晩まで1人での生活。目の前の灰色のコンクリートの壁とにらめっこをするだけの日々が続いた。
社会に暮らす母親や家族、友達を思い出すことがあった。ネガティブな感情だけではなく、ポジティブな感情―会いたいとか、元気にしているのかなという気持ち―も、誰とも会えない環境においては結局苦しみにしかならなかった。
独房という場所では物理的に他者が私の中に入ってくることはなかったけど、精神的に自分の中に入れてしまうと、本当にどうしようもないくらい気持ちが不安定になった。
私に許されているのは、どんな感情を抱えていても、独房での生活だった。おもちゃみたいなピンチを、延々と組み立てるしかない。それしかないんだと思ったとき、最優先にしたのはまず自分自身が生きることだった。