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「文化時報」コラム

〈97〉「終活」に思う

2025年5月5日 | 2025年5月6日更新

※文化時報2025年2月11日号の掲載記事です。

 「終活」という言葉を聞くようになって久しい。人生の終わりに備えておく活動のことらしい。死後のことだけでなく、認知症になったり寝たきりになったりして、いろいろなことが自分ではできなくなったときに「こうしてほしい」と伝えることも含まれているという。

 その終活が業種によってはビジネスにつながるとあって、なかなか活発になっている。保険会社や葬儀社は代表格だろう。

 備えておくことは結構なことだが、こうも言いたくなる。「そんなに都合よく事は運ばないよ」と。

 「老後にお金はいくら必要か?」と今から思い悩んでも、その時には状況が変わっているかもしれない。

 「どれくらい必要か分からないから、今のうちにたくさん貯(た)めておこう」という人も多い。実際にたくさん貯めてから認知症になって貯金のことをすっかり忘れている人が近くにいる。貯金をほとんど使わなくても、笑顔で生活されている。

 また、親から財産をたくさんもらった中年男性がいる。「今のうちに使っておいた方がいい」とアドバイスしている。「高齢者になったら使えなくなるかもね」と理由を説明している。

 筆者はたくさんの高齢者の暮らしに寄り添い、看取(みと)りをして葬儀を執り行ってきた。だから言える。「お金を貯めておくより、人の縁をつないでおいた方が老後は楽しいと思うよ」と。

 筆者には実子がいない。でも「娘みたいな」「息子みたいな」人がたくさんいる。そのうち「孫みたいな」人も現れるだろう。

 娘や息子や孫みたいな人に残すもの、それはお念仏のほかにない。ご本尊に向かい手を合わせる姿を見せておけば、筆者が高齢者になってお金はなくても楽しく暮らしている姿を、世の人に見てもらえるだろう。

 そのための場所が安住荘だと思っている。今年建て替えて、福祉施設を兼ね備えた聞法道場に機能を変える。認知症になったり寝たきりになったりすることを恐れることはない。

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