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「文化時報」コラム

㊺私のスピリチュアリティ

2023年9月17日

※文化時報2023年6月30日号の掲載記事です。

 先日、ある方と話していたときに「玉置さんの“スピリチュアリティ”って何ですか」と、問うていただきました。

傾聴ーいのちの叫び

 さて、困りましたよ。そもそも、「スピリチュアリティ」は日本人になじみのない概念でとても分かりづらく、言葉にもしづらいのです。かといって、日本人にスピリチュアリティがないわけではないでしょう。むしろ、当たり前にあり過ぎて、言語化する必要がなかったのではないかと感じています。

 例えば、「阿吽(あうん)の呼吸」とか、「以心伝心」とか。「虫の知らせ」とか、「お告げ」とか。たしかに「在る」けれど、見せられず言葉で伝えられないものを、私たちは感覚で共有してきたのだと思います。

 とはいえ、常々「スピリチュアルケア」などと言っているわけですから、あなたのスピリチュアリティは何かと問われ黙っているのも申し訳ありません。スピリチュアリティを「私の内面の奥深くにあるもの」と言い換えさせていただきお答えするならば、それは、「無」です。

 「車がほしい」「名声がほしい」「伴侶がほしい」とあらゆる渇望に突き動かされ、四苦八苦したときがありました。でも、それを手に入れたとしても、満ち足りたのは一時のことでした。いつかまた、渇望が湧き起こり、七転八倒が始まります。

 体中にくっついている渇望を、ひとつひとつ引っぺがしては捨て、引っぺがしては捨てした後に、私の内面の最も奥深くに静かに横たわっているものは「無」でした。そこが、私のスピリチュアリティです。「無」といっても、なにもない虚無ではありません。そこにある「無」は、一瞬たりとも留まることなく流れ、動き続ける宇宙全体との完全なる同調によって成っています。つまり、全宇宙そのものなのです。

 ま、そこまでいくと、「私」なんて些末(さまつ)なくくりはなくなっているので、もはや「私のスピリチュアリティ」などと言う意味はないのかもしれません。

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