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「文化時報」コラム

〈52〉寺院にとっての葬儀

2023年10月23日 | 2024年10月2日更新

※文化時報2023年3月14日号の掲載記事です。

 本紙2月28日号掲載の寄稿「『寺院葬』に物申す」を読んで、ショックを受けた寺院関係者がいたのではと心配になった。「駐車場・冷暖房は当然として…」で始まり、寺院で葬儀をするためにはハード面の充実が不可欠という指摘であった。全くもってその通りなのだが、そこまで「設備投資」ができる寺院はごく一部ではないかと思った。

 筆者が「福祉仏教」を推奨するのは、今の資源のままで寺院の収入源である葬儀を拡充するためでもある。ハード面では葬儀専門ホールにどうしても負けてしまう。相手の土俵に乗る必要はない。ホールは設備面を充実し広告宣伝に金をかけないと「寺院に負ける」から仕方なくしているだけだろう。

 寺院には歴史というアドバンテージがある。教えを継承してきたというソフト面がある。そこは葬儀専門ホールにまねができないのである。

 商業化された葬儀はここ数十年のことである。そこに惑わされてはいけない。前回の小欄で書いたように「金で買えないものがある」ことを、寺院は伝えていかねばならない。「老病死」は思い通りにならない「苦」である。それを思い通りにしようと「迷って」いる人々に道を示さねばならないと思う。

 今年のNHK大河ドラマは、例年以上に「一向一揆」を扱っている。「死ねば極楽浄土へ行けるので喜んで死んでいく」という印象を、視聴者に与えているような気がしてならない。南無阿弥陀仏の理解はそれでいいのだろうか?

 葬儀ではなぜ僧侶が読経するのか―。その意義を明確にしておきたい。そして、伝えておきたい。

 ご臨終となってからでは遅い。病院は寺院ではなく葬儀社に電話するよう促す。だから寺院はその前、介護や終末期から関わっていなくてはならない。「設備投資」するよりもはるかに簡単だと思う。「金で済まそう」とさえしなければ、であるが。

 

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