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「文化時報」コラム

〈53〉なぜ「備え」で悩むか

2023年12月20日

※文化時報2023年11月3日号の掲載記事です。

 備えることは大事だと、私もそう思います。

傾聴ーいのちの叫び

 昨今、医療・介護の現場ではしきりと「人生会議(アドバンス・ケア・プランニング)」が実施されています。もしもの時に備えてどこまで治療するかをあらかじめ決めておこうというのが、この「人生会議」です。

 たしかに、あらかじめ考えておくことで周りに迷惑をかけずに済むとか、望み通りの治療を受けられるという利点はあるかもしれません。でも、実際は、いよいよとなって考えが変わったり、決めていた通りにはできない状況になったりと、一筋縄ではいきません。

 墓じまい(最近は「仏壇じまい」まであるそうですが!)もそう。先日も、墓をしまうのに目の玉が飛び出るほどのお金がかかるというご相談をいただいて、びっくりしました。

 安心するために備えているのでしょうに、なぜだか、備えるために四苦八苦して、結局は悩み多き日々を送ることになるなんて、何となく釈然としません。

 事前に準備することの中に、一筋の汚れが混じっているような気がします。「一緒くたに埋葬されたんじゃかなわない」「国に持っていかれるのは嫌だ」。ちょっとでも自分が良い状態になるように、得をするように、思い通りになるように。

 その汚れが、「迷惑をかけないため」「周りを困らせないため」といういかにも美しく見える衣をまとって、まるで正義のように大きな顔をしているだけのような気もするのです。それを煽(あお)って金もうけをしようという輩(やから)もいるとかいないとか。

 何ひとつとして「どうにもならない」ことはありません。何の準備もしていなくても人は死ねるし、しまわなくたっていずれ墓は朽ち、土に返っていきます。なぜなら、この世の全ては、同じ所に留(とど)まることなく変わり続けていく諸行無常の真理の中にある微小な一点にすぎないからです。

 自分が死んだ後のことまで、あーせいこーせいと口を出すのは…。あ、なんだか怒られそうな気配。まる。

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