2024年10月21日
※文化時報2024年8月2日号の掲載記事です。
「潮目が変わる」「潮目を読む」。政治やビジネスの世界ではしばしば使われる表現ですが、振り返ってみればこれまでの「人生」の中にも、そんな状況がいくつかありました。
私の場合、生まれた子どもが重度のアレルギー体質だったので、彼を育てるために看護師になりました。夫が亡くなって、それをきっかけに僧侶になりました。大きく潮目が変わったときです。
でも、渦中にいるときは、まったくそう思わなかったんですよね。ときどき「よく決心しましたね」「ものすごい覚悟がいったでしょう」などと言っていただくのですが、いや、決心も、覚悟も、迷いも、一切なし。そのときは、もうそっちの方向に流れていくしかない感じでした。まさに、潮目だったのでしょう。
逆に、どうあがいたってうまくいかないこともありました。夫の闘病中のある時期がそうでした。やることなすこと裏目に出て、先手を打ったつもりが後手に回ってしまう。どうにもこうにも全ての歯車がかみ合わなくて、思うようにいかない。八方塞(ふさ)がりのストレスから、言い争いをした夜もいくつもありました。
今思えば、私たちは潮目にあらがって、たぶんもうどうしようもないことだったのに、流れを変えようとしていたのだと分かります。
結局、人生にも潮目があって、私たちはその大きな、大きな流れの上に浮かべた笹舟(ささぶね)に乗っているようなものなのかもしれませんね。その流れの行く先は、ちっぽけな人間ひとりにどうこうできるものではなく、ただただ潮目に任せて流れていくしかないのかもしれません。
巷(ちまた)の笹舟否定派は、きっとこうおっしゃるでしょう。
「情けない! 自分の人生は自分で切り開くものだ!」
たしかに。でもね、笹舟人生も捨てたもんじゃありませんよ。もしかすると、ものすごくしなやかで、豊かで、賢い生き方なのかもしれません。人生にも潮目あり。成るも成らぬも、会うも会わぬも、流れのままに。