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「文化時報」コラム

〈69〉「墓じまい」と僧侶

2024年11月2日

※文化時報2024年8月23日号の掲載記事です。

 先日、ネットニュースである記事を読みました。「墓じまい」や「仏壇じまい」について書かれた記事でした。

傾聴ーいのちの叫び

 たしかに、私の周りにも「墓じまい」をする人がちらほらいらっしゃいます。先日は、ご主人を亡くされた方から、仏壇ではなく別の形にしたい…と「仏壇じまい」の話もお聞きしました。くだんの記事では、これらの現象は「日本人の死生観の変化」が原因ではないか、と分析していました。ふむふむ。さもありなん。

 でも、原因はそれ以外にも「僧侶の在り方の劣化」「僧侶の求心力の減退」があるような気がしています。いや、ぽっと出の在家出身者が何を言うかって話なんですけどね。すみません。不愉快でない方だけ、お読みください。

 ここのところ、立て続けに耳にした話は、お家相続のごたごたでした。跡取りに恵まれず養子に迎えた副住職が乗っ取りだ横領だと、なんだか俗世でもあまり聞かないようなドロドロ話。私なんぞの耳にまで入るのですから、よくある話なのかもしれませんね。

 そもそも、お寺って世襲なんですね。個人のものではないと思っていたんですけど、弟子の中から最も優秀な者が引き継ぐのではなく、子どもさんが継ぐんですものね。

 いえ、子どもさんが優秀でないと言っているわけではありませんよ。寺に生まれた子が必ず仏の道に入りたいと思うわけではないだろうに、とね。そして必ず子宝に恵まれるわけでもないでしょう。それでも世襲にしているから、ドロドロ物語になるのだろうな、と思ったわけです。

 そもそも、仏道に身を置くとは、俗世のもろもろから離れること。人間同士の欲の絡んだすったもんだとは違う次元に存在すること。だからこそ、私たちのような在家出身は、僧侶に憧れて、敬服して、おすがりするんです。それがねえ…。

 たぶん、いろいろにじみ出てしまうのだと思いますよ。それで、大事な人の弔いを、お任せしなくてもいいかと思わせてしまうのではないでしょうか。

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