2025年2月23日
東京都練馬区の岩﨑花奈絵さん(31)は車いすピアニスト。脳性まひにより右手人さし指のみで鍵盤を弾き、母親の準子さん(63)と連弾する。7歳でピアノを始め、米ニューヨークのカーネギーホールで演奏した経験も。音楽好きな仲間との交流や恩師との縁に導かれ、国内外で活躍している。
花奈絵さんのピアノはとても優しい。車いすに乗ったまま、前かがみで丁寧に奏でる。聞く人の心にストンと入っていく心地いい音だ。
花奈絵さんの日常生活は、主に音楽活動と作業所への通所。生活には車いすが必須で、1人で体を起こすのは難しく、介助が欠かせない。
ピアノ歴24年。脳性まひにより両手が動かせず、演奏は比較的まひの軽い右手人さし指1本で行う。2018年に初のアルバムを制作し、24年12月には2枚目のアルバムをリリース。普段は近隣の学校や児童館などで演奏し、地域の人々と交流を深めている。
花奈絵さんは1993(平成5)年4月、岩﨑家の次女として、予定日より2カ月早く誕生した。長女と比べて首の座りが悪く、寝返りもできなかった。早産の後遺症による脳性まひと診断され、準子さんは大きなショックを抱えたまま、花奈絵さんを連れて療育に通うこととなった。
「毎朝目が覚めるたびに、夢だったらいいのにと思いました」と、準子さんは振り返る。将来を考えると先が見えない上に、当時は長女の子育てもあった。保健師が寄り添い、「この子が生きていくのは大変だろうけど、子どもは天からの授かりもの。きっと幸せを運んでくれる」と励まされて、ようやく前を向けた。
花奈絵さんは、愛嬌(あいきょう)のある元気な子に育った。5歳の時、姉のピアノの発表会を見て「私も出たい」と準子さんに訴えた。ピアノは難しいのでは―と準子さんは迷ったが、ピアノ講師に相談。「右手1本で弾けるなら、お姉さんと連弾できるだろう」と言われて、習い始めた。
小学校は花奈絵さん自ら「お姉ちゃんと同じ学校に行く」と宣言。入学後、1年生の間は準子さんが毎日学校に付き添い、親子で一緒に給食を食べた。「その頃には三女も生まれて、おんぶをしながら6年間通いました」。子育てへの並々ならぬ努力もあって、花奈絵さんは中学校も普通級に通い、心ある保護者たちも介助をサポートした。
だが、高校は付き添いの限界があり、花奈絵さんは特別支援学校の高等部へ通った。「普通の高校に通いたい」と泣きながら通学し、体の不自由さをどうすることもできない状況に、悶々(もんもん)としながら3年間を送った。
その間もピアノは続けていた。花奈絵さんは高校卒業後、国立(くにたち)音楽院(東京都世田谷区)へ進学。連弾のパートナーは母親の準子さんで、共に練習をしてきた。準子さん自身が中学まで習っていたピアノを約20年ぶりに再開。音符を読めない花奈絵さんは、準子さんからメロディーを伝えられ、耳で記憶して弾いた。
最大の転機は、ピアノ教室のつながりで知り合った元武蔵野音楽大学助教授、迫田時雄さんとの出会いだった。
「障害のあるピアニストに世界で演奏させたい」という迫田さんの後押しを受け、2007年に米ニューヨークの国連本部で開催された「ピアノパラリンピックデモンストレーションコンサート」に出演。その際、偶然にもカーネギーホールに空きがあると知った迫田さんが、急遽(きゅうきょ)会場を押さえたという。
当時の花奈絵さんには、歴史あるカーネギーホールの偉大さは分からなかった。それでもチャンスに恵まれたことを感じ、準子さんとの連弾で「星に願いを」を弾いた。日本のピアニストがめったに弾けないホールで、これまでの親子の頑張りをねぎらうかのような最高の体験をすることができた。
その後も迫田さんのおかげで09年にカナダ・バンクーバー、12年に台湾、13年にオーストリア・ウィーンでの演奏が実現した。14年には音楽文化の発展に寄与した個人や団体に贈られる「JASRAC音楽文化賞」を受賞した。
09年のカナダ公演で一緒に参加した同世代の仲間たちと4人で、グループ「音のりぼん」を12年に結成。親同士が協力し合い、ダウン症や自閉症の音楽家たちと共に活動を行うことで、実績を積んだ。
今後について準子さんは「私だけでなく、他の人とも連弾できるようになってもらいたい」と話す。還暦を過ぎ、親子で遠方に行くことに体力的な限界を感じているという。
このため花奈絵さんは、最近は信頼のおける音楽家と連弾する機会を増やしている。
花奈絵さんは「海外で友達になった音楽仲間に会いたい」と話す。英語を話せればもっと世界は広がると、自身の会員制交流サイト(SNS)には日本語だけでなく英語で文章を書いている。これからも世界各国を飛び回り、ピアニストとして活動していく。