2024年9月17日
埼玉県所沢市出身の産婦人科医、森田恵子さん(38)は「国境なき医師団」のメンバーだ。2022年から南スーダン、キリバス、アフガニスタンの3カ国を巡り、日本とは違う生活背景を見聞きしながら、妊婦の診察や現地の医師たちのサポートを行った。独特な文化、思考、営みに驚きながらも、持ち前の身軽さと笑顔で、しなやかに国際社会に貢献している。
国境なき医師団は1971年にフランスで設立された。紛争地や感染症の流行を繰り返す地域、自然災害や貧困により医療資源が不足する地域など世界約70カ国で、医療・人道援助を無償で行っている。99年にはノーベル平和賞を受賞した。
医師や看護師だけでなく、物流や現地の安全を管理するコーディネーター、財務担当など非医療系のスタッフも派遣される。
森田さんは2024年3月にアフガニスタンから帰国。現在はクリニックで非常勤として働き、次の渡航に向けて準備している。
3カ国の中ではとりわけ南スーダンのインパクトが強かったという。3カ月間滞在し、産婦人科医は森田さん1人という状況で、妊婦を診察していた。現地には50以上の民族がいるため言語もさまざまで、説明が難しい場合はその場で通訳できる人を探した。
そもそも手術が何なのか分からない、という患者がいた。西洋医療を信頼せず、提案すれば強く拒否された。
「ある女性は、帝王切開で産むことに納得してもらえず、最後には『家族が見ている前で手術するならいい』と言いました。彼女は私たちが赤ちゃんだけでなく、手術中に他の臓器も取って売ってしまうかもしれないと、疑っていたのです」
一夫多妻制の文化が根強い上に、1人の女性が8人、9人と出産することも決して珍しくない国だ。胎児が死亡したり、分娩中に妊婦が亡くなったりするケースも多くあった。母子共に健康でいられることが、いかに尊いことかを実感させられた。
ただ、日本と大きく違ったのは、亡くなった子どもや母親を目の前にしたときの家族の反応だ。深い悲しみに暮れる様子はなく、淡々と現状を受け入れる姿に大きなギャップを感じた。
「あなた方は最善を尽くしてくれた、神のご加護がありますように」。そう言って静かに病院を後にする遺族たちを見て、森田さんは医師として救われる思いがした。
南スーダンは国民の平均寿命が短く、2022年には妊婦の死亡率が世界1位だったという。11年にスーダンから独立した後も民族間の紛争が続き、病気やけがで亡くなるだけでなく、殺されてしまう人が多いのも現実だ。
「人の死はさほど大きな出来事ではなく、慣れさえも感じる空気感があった」。森田さんはそう振り返る。
一緒に働く医療スタッフたちも例外ではなかった。「家族が殺された」「自分も殺されかけた」と話す人もいた。自国では生きていくことが困難で、国境を接するウガンダに逃れて難民として暮らし、必死に勉強して助産師資格を取得したという同僚もいた。
「仕事をしている時は、お互いに冗談を言って笑っています。でも、彼らの抱えている悩みや葛藤はあまりに大きく、想像を絶するものでした」
一方、自分たちと変わらない日常を送っている姿も垣間見えたという。
韓流ドラマを楽しんだり、サッカーの応援やお酒を飲むことで陽気に過ごしたりする光景は、日本人と何ら変わりはなかった。「人はどこにいても、同じような楽しみがある」と改めて知ったという。
1986(昭和61)年生まれ。父は医師で、3人きょうだいの長女として育った。小学生の時から児童会に立候補するなど活発な性格で、国連児童基金(ユニセフ)の募金活動に参加したのをきっかけに国際貢献に興味を持った。
高校に進学するとバンド活動を楽しみ、人前に立つことが好きだった。将来は音楽やエンターテインメント業界に憧れていたが、高校1年の時に米国へ語学留学へ行き、トラック運転手の父親がいるホストファミリーで過ごす間に考えが変わった。
「たとえば、この家庭を支えている大黒柱のお父さんに何か起きたら、家族が路頭に迷ってしまうし、他の家族が病気になっても、今の幸せな暮らしを維持できないと思ったんです。家族みんなが幸せでいるには健康であることが重要だと思い、医師になる決意をしました」
富山大学医学部へ入学。2年の時に発生学の授業で受精のメカニズムに感激し、産婦人科医を目指した。
卒業後は富山県内と東京都内の病院に勤務し、2021年には大学院で博士課程を修了するなど、順風満帆なキャリアを積んだ。
だが、医師生活が10年目になると、森田さんは長年にわたる激務と疲労から、だんだんと精神的に追い詰められていた。「今の状況から逃げ出したい」。そう思うようになった。
上司との面談で「何もしたくない」と口にしたとき、「昔、海外へ行きたいって言っていたよね。行ってもいいよ」と後押しされた。何とか重い腰をあげ、国境なき医師団という次のステップを見つけた。
提出する膨大な種類は全て英語。すぐには書けず、何度も手が止まった。実際に現地で活動したスタッフに様子を聞き、イメージトレーニングをしてから渡った初めての派遣先が、南スーダンだった。
キリバスでは病院内に野良猫、野良犬がいるのは当たり前。保冷用の薬を常温で保管するなどのずさんな管理体制を、改善するよう試みた。現地スタッフとぶつかる時もあったが、最後まで前向きに取り組んだ。
アフガニスタンは女性が1人で歩くことを許されず、寄宿舎に缶詰めだったが、自然の美しさや人のおおらかさなど、国の印象が変わるような体験をした。1日60件もあるお産では、三つ子や四つ子を取り上げ、生命の誕生の喜びを周囲と分かち合った。
今、日本にいて思うことがある。
「ニュースは恐い面しか報道しませんが、実際に現地で暮らすといい面が見られます。私たちは文化や習慣が違うだけで、同じ地球で生きているのだと分かります。普通に暮らしているだけなのに、迫害や抑圧されて苦しむ人々を見ると苦しくなります」
どの国も最低限、安心安全な暮らしを確保できるようにならなければ―。そうした思いが、医療を届ける活動へと自分を駆り立てている。