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お寺と福祉の情報局

ダウン症の娘、苦しんだのは母だった

2022年9月1日

 ダウン症のある金澤翔子さん(37)は、天才書家として知られる。母の泰子さんが「今は幸せ」と話すのは、翔子さんが書家として成功したからではない。

金澤翔子さん(右)と母の泰子さん
金澤翔子さん(右)と母の泰子さん

 「こういう子が生きていてはいけないのだと思い、死ぬことばかり考えていた」

 泰子さんは、42歳で翔子さんを授かり、ダウン症があることを医師に告げられた時のことを、そう振り返る。

 地元小学校の普通学級に通い、担任の先生から「翔子ちゃんがいると、皆が優しくなる」と言われ、「翔子はいてもよいのだ」と感じた。

 ただ、学年が進むと、普通学級に通うことが難しくなった。特別支援学級を設ける遠くの小学校に通う必要がある。納得できず、一時は自宅にひきこもった。

 結局は転校せざるを得なかったのだが、予想に反して翔子さんが喜んで通学した姿を見た時、泰子さんは心が楽になったという。

 「苦しいのは親の私だった。翔子は、ダウン症を苦しんでいなかった」

親なきあとを超えて

 障害のある子を持つ親は、障害の大小にかかわらず、自分が世を去った後のわが子の生活を不安に思う。「親なきあと」の問題だ。

畳2枚ほどの紙に大書する翔子さん
畳2枚ほどの紙に大書する翔子さん

 泰子さんは「もう終活をしなければならない年齢」と語りながらも、不安を顔に出さない。なぜなら、翔子さん自身が、親なきあとも生活できる環境を、自らつくり上げたからだ。

 翔子さんは、30歳から一人暮らしを始めた。ある講演会で、突然「やる」と宣言したため、泰子さんは、いやが応にも準備を進めざるを得なくなった。

 ダウン症のある子を受け入れる物件は少なかったが、自宅から徒歩7分の距離に住まいを見つけた。 それから7年。翔子さんは、一度も実家に帰っていない。自分で買い物に行き、料理もする。町の人たちは、家族のように接してくれる。「翔子は、自ら共同社会をつくった。これが一番の功績」と、泰子さんは話す。

 そして「子どもは障害があっても、大きな力を持っている。社会に合わないからと諦めないで、その子を尊重してほしい」と語る。

マイケル・ジャクソンにふんするおちゃめな面も
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