2024年8月1日
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
――詩人、高村光太郎(1883~1956)
この言葉は、高村光太郎の詩「道程」の1節です。
1914(大正3)年3月に発表された「道程」は102行の長詩でしたが、同年10月に刊行された同名の詩集では、以下の9行に短縮されています。
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた廣大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の氣魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
人生は、他の誰でもない自分自身で歩むしかありません。その歩んできた軌跡を「道」と呼ぶのです。
「僕」は絶対的な存在である「自然」や「父」に守護を願います。ここでいう「父」は実際の父親ではなく、自らを守ってくれる概念としての「父」でしょう。
なぜ家族や友人ではなく、このような存在を必要としたのでしょうか?
それは、人間には他者を完全に理解することはできないからです。どれだけ身近な人でも、あなたと全く同じ感情を共有することはできません。
家族も友人もいるのになぜか孤独を感じるときがあるかもしれません。それは誰もが突き当たる問題です。
だからこそ、それ以外の存在が必要とされるのです。
「孤独の分かち合い」について、他にもさまざまな言葉が生み出されています。
四国八十八ヶ所霊場を巡る「お遍路」。このときにかぶる菅笠(すげがさ)に「同行二人」という言葉が書いてあります。弘法大師空海が旅に同行し、巡礼者を守ってくださるという意味を持っています。
孤独を和らげてくれるこの言葉ですが、同時にグループでお遍路をしても、みんなで苦しみを共有できるわけではない、ということも教えてくれます。周りに人がいたとしても、その一人一人がお大師様と2人きりなのです。
また、米国人女性が1964年に書いたとされる「あしあと」という詩でも、キリスト教の「主」と2人で人生を歩む様子が、次のように描かれています。
人生のつらいとき、それまで「主」と「私」の2人分あった足跡が1人になります。「私」が理由を尋ねると、「主」はこう答えます。
「あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていたのだ」
国も宗教も違う人々が同じ思想を説いたことは驚きですが、それほどまでに孤独は全世界共通の苦しみなのでしょう。
独りで道を切り開いていくことには、困難が付きまといます。それでも常に誰かが横にいると思えば、先へ進む力が湧いてくるのかもしれません。