2026年1月5日
※文化時報2025年11月7日号の掲載記事です。
あるサッカーチームのサポーターが、応援をボイコットしているそうです。

成績不振への不満、クラブへの抗議、選手に発奮して欲しいという願い、理由はいくつも語られていますが、決定的な〝真相〟は分かりません。
ただ、一つだけ確かに言えることがあります。それは、「応援しない」という行為は、もはや応援ではないということです。
応援とは、相手の状態に条件をつけないものです。勝ったから、強いから、好きだから声を上げるのではありません。むしろ、うまくいかないときこそ、声をかけ続けることに意味があります。そこに「応援する」「支える」ということの本質があるのではないでしょうか。
ボイコットという形で沈黙を選んだサポーターの思いは、深い愛ゆえの厳しさかもしれません。けれど、沈黙は多くの場合「愛」ではなく「断絶」を生じさせます。
支えたい想(おも)いがあるのに、支える形を取り違えてしまう。そのねじれが、チームにも、そして自分たちにも、苦しさをもたらしているように思えてなりません。
この構図は、人間関係でも同じです。家族でも、職場でも、友人関係でも、誰かの失敗や迷いに対して「もう知らない」「勝手にしろ」と背を向けた瞬間、そこに応援の心はなくなります。つながっていた糸は細くなり、やがて切れてしまうでしょう。
応援とは、結果を追い求めるための手段ではありません。相手の存在を信じ抜くこちらの覚悟です。どんな結果であっても、その人がそこに在り続ける力を信じて見守ること。勝っても負けても、泣いても笑っても、成功しても失敗しても、その姿に声を送り続けること。それが本当のサポーターであり、そして、人を支えるということの原点なのだと、私は思います。
たとえ小さくても、今日も声を出します。たとえ届かなくても、明日も声を出します。顔を上げた相手と目を合わせる。そのささやかな積み重ねが、やがて大きな力になるのだと信じています。