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「文化時報」コラム

⑳底なしの絶望から

2023年2月4日

※文化時報2022年6月10日号の掲載記事です。

 50代男性のIさんは当初、私がお部屋を訪ねるたびに悔し涙を流していらっしゃいました。抑えられない病の勢いを恨み、家族との別れを悲しみ、もう歩くことさえままならない自分自身にいら立っての涙でした。

傾聴ーいのちの叫び

 ところが、Iさんはどんどんと変わっていかれたのです。

 「趣味が高じて集めたカメラも、ゴルフクラブも、全て意味がなくなった」。ある日、そうおっしゃいました。「あんなに欲しくて、欲しくて、買いあさっていたのに、今は目の前に落ちていても拾わないなあ」と静かに笑ったのです。

 そして、執着していた娘さんたちのことも、「幸せに生きていってほしいとただひたすら願うだけ。離れることを悲しいと思わなくなった」と語りました。

 私がさぞ不思議そうな顔をしていたのでしょう。「分かったんだ。病気になって、いろんなものを一つ一つなくして。今まで”自分”だと思っていたものが幻だったのだと」。私が返す言葉に詰まっていると「私にはもう何もないけど、でも、ベッドに寝ているだけで退屈しないんだ。なんだかね、それだけで楽しいんだよ」とおっしゃったのです。

 私は思わず「Iさん、悟られたのですね」と口に出していました。Iさんは首を振り、「もっと早くに気付ければ良かったんだけどな。こんなになって気付いても遅いんだよ」と笑いました。

 いえ、Iさん。そんなことないです。底なしの絶望から、よくぞ…。そのお姿は、まるで泥の中からスッと茎を伸ばして咲いたハスの花のようです! 

 …これはさすがに口には出せず、心の中で何度も叫びました。そして、私も「その時」が来たときには、Iさんのように悟らせていただきたいと切に思い、あやからせていただくべく、掛布団の端をそっと握らせていただいたのでした。

 「最期は乱れるかもしれないから、よろしくね」とおっしゃっておいででしたが、最期まで凛としたまま逝(い)かれました。人間の底力を見せていただいた出会いと別れでした。

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