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「文化時報」コラム

〈43〉開放的であっても

2023年7月11日 | 2024年10月2日更新

※文化時報2022年10月25日号の掲載記事です。

 近隣に「大人の遊び仲間」と自称するグループがある。メンバーは70代を中心にした男性ばかり15人ほど。元社長や元教員もいるらしいが、現役時代の職業は口にしない。「トントン(差がない)の関係」を大事にしている。だからリーダーもいない。

 そのうちの数人が用もないのに自転車に乗って突然やって来た。せっかくだからとお茶を出した。30分ほど世間話をして帰っていった。

 彼らにとって筆者のいる聞法会館は「サード・プレイス」となっている。家庭でも職場でもない、心地よい第三の居場所だ。そんな場所だと感じてくれて、とてもうれしく思った。

 同時に、とても懐かしく思い出した。中学生の頃、用もないのに自転車に乗って友達の家に行った。金はないが時間はたっぷりあったのだ。大人になるとそんなことをすっかり忘れていた。

 お寺は「サード・プレイス」となり得るのだろうか? 広い本堂に座り静かに手を合わせる。多くの人は心が落ち着くのだろうと思う。だが「気軽に」本堂へ上がることができるかといえば、首をかしげるしかない。本堂へ上がるどころか、山門をくぐるのも躊躇(ちゅうちょ)するかもしれない。

 大きな本山でも、檀家や門徒、信徒でない人が入りやすいとは思えない。観光客がたくさんいるので、境内には入るかもしれない。そこから履物を脱いで、ためらいなく本堂に上がれる人はどれくらいいるだろうか。ご自身の宗門以外の本山を想像してみてはいかがだろう。

 筆者がいる聞法会館は元々民家なので、抵抗感は少ないのかもしれない。その分、厳かさはお寺にはかなわない。今さらそこをどうにかしようとは思わない。

 ならば、もっと入りやすさを追求しようと考えている。玄関をもっと開放的にして、外から中が見えやすいようにと思っている。カフェスペースもあった方がいいだろう。夢は膨らむ。

 そこであることに気が付いた。多くの人が入りやすくなるということは、安全性が低くなるということだ。防犯カメラは設置してあるが…それで大丈夫だろうか。

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