2024年9月6日
※文化時報2024年6月21日号の掲載記事です。
「失ってみて初めてそのありがたみが分かる」などと、巷(ちまた)ではよく言いますが。人生の中には、それをリアルに感じさせてもらう機会が、どうやらしっかり用意されているようです。
失ってから気付くものはさまざまで、ガス、水道、電気、お金なんてものから、健康や家族、生きていく気力や生き甲斐(がい)、なんていうものもあるかもしれません。
いずれにしても、気付いたときには失ってしまっているわけですから、本人としてはもうすでに大変な状況になっているわけです。
それなのに、案外多くの人が「大丈夫?」と声をかけてくる。「いや、ご覧の通り、大丈夫ではないです。今、相当にやられているんですよ、見て分かりませんか?」は、心の中の声で、表面的には「ご心配ありがとうございます。大丈夫です」って、返しちゃうんですよね。これ、なんでしょうね。
そして、さらなる言葉の攻撃が続きます。「無理しないで」「ゆっくり休んで」。そうなんですよ。本人が一番そう思っているんです。でも、今のご時世、無理せずゆっくりしていたら、ただちにおまんま食えなくなりますから。そうそう無理しないでゆっくりしてもいられないってのが現状です。その狭間(はざま)でぎりぎり頑張っているところですからね。そこへ、高い所から「ゆっくり休んでね~」って声だけかけられてもねえ。
「仏様がくれた休み時間だから楽しんで」というのもありましたけれどね、仏様には、「希望してないものはいらないので、大事なもの取ってかないでください」って言いたくなりますもんね。
というわけで、今後、私は「大丈夫?」って、聞きません。「大丈夫じゃないよね?」って声をかけようと思います。「無理しないで」って、言いません。「どうやったら一番楽に無理ができそう?」って、聞こうと思います。
いやはや、今はまだ、こんなところです。もう少し賢くなっていくシナリオが、この先に用意されているといいのですが。