2025年6月2日 | 2025年6月11日更新
埼玉県久喜市の平田舞乃さん(21)は脊髄腫瘍、側彎(そくわん)症、膠原病(こうげんびょう)と三つの病気を患っている。小学4年生で突然歩けなくなり、入退院を繰り返して現在までに3回の手術を受けた。障害者雇用の在宅勤務で経営コンサルティング会社に就職し「やりがいを感じている」と話す平田さん。人との縁を大切に、もっと自分を成長させたいという熱い気持ちを持っている。(飯塚まりな)
取材当日、平田さんは電動車いすに乗り、自宅の近所にあるカフェにやって来た。休日はバスや電車を使い、積極的に外出しているという。
母親も介助者として同行。普段から親子で行動しているという。出先ではトイレの問題、道路の段差など1人で行動するには心配事が多いと、母親は話していた。
おしゃれが大好きで、黒のタートルネックに白いブラウスを合わせたファッション。メイクもばっちりで、指先にはきれいなネイルが光る。自分なりの青春を楽しむ、そんな雰囲気が全身から伝わってきた。
元気そうに見えるが、昨夏には膠原病を発症した。最初は手が冷たくなり、その後だんだんと痛みを感じるようになったという。いまだに自分に合った治療薬が見つからず、副作用で疲れやすさやだるさを感じている。
仕事は在宅勤務。会社は都内にあるが、ほぼ行くことはない。午前9時から午後4時まで、採用担当として書類を作り、障害者雇用での就労を希望する20〜30代の求職者に向けて、実習のフォローに当たっている。
高校卒業後の進路を決める際に、この会社のことを知った。卒業後、病気のため1年間療養したが、強い希望で就職を勝ち取り、ようやく2年が過ぎた。
「求職者の方々が難病や障害のため思うように働けない現実があります。今後は選考から面接まで一貫して業務に携われるようになるため、一人でも多くの人が働きやすい環境を整えることが、今の目標です」
母親は「娘は病気になった10歳のときから一度も弱音を吐いたことがなかった」と話す。平田さんの強い気持ち、前向きな姿勢はどこからくるのだろうか。
平田さんは2003(平成15)年生まれ。両親と姉と4人暮らしで、不自由なく育ってきた。
母親は平田さんが小学2年生のころから歩く速度が遅くなってきたと感じていたが、さほど気にすることはなかった。ところが4年生になると、突然頭痛と吐き気に襲われ、衰弱していった。
検査したが1年ほど原因がわからず、歩行も困難になった。肺炎になり大学病院に入院したことを機に調べてもらったところ、10万人に1人が発症するといわれる脊髄腫瘍と診断された。
まもなく足のリハビリを開始。平田さん自身は当初「つまらない」と感じていたが、楽しんでリハビリに取り組めるよう工夫してくれる病院のスタッフたちの姿が、子どもながらにうれしかった。
中学校までは普通学級に通い、同級生たちとできるだけ同じ生活を送るようにした。吹奏楽部に所属し、熱心に練習に励んだ。
体力がついていかず、入院や通院で学校を休むことがたびたびあった。入院中は抗がん剤治療も経験。病棟での単調な生活は精神的につらく、学校に戻っても1人で過ごす時間が多かった。当時はつえを使用しながら登校していたが、徐々に足が上がらなくなり、転倒することも増え、学校の階段を上るのにしんどさを覚えるようになった。
高校は特別支援学校に通い、少人数のクラスに気持ちが救われた。少しずつ積極的になって、2021年には東京パラリンピックの聖火ランナーに応募して見事選ばれた。当時はコロナ禍で公道は走れなかったが、埼玉県朝霞市内で行われた代替リレーに笑顔で参加した。
平田さんの支えになっているのは、家族はもちろん、難病を発症してから知り合った主治医や看護師、リハビリのスタッフ、学校の先生といった大勢の大人たちだ。それぞれが真剣に向き合ってくれたおかげで、前向きに過ごすことができたと感謝している。
「日々の治療は大変ですけど、それ以上に得られるものが大きいと思っています。病気にならなければ、聖火リレーにも参加していませんし、どんな生活を送っていたのか想像もできません。今の私の方が充実した日々を送れています」。言葉を選びながら、丁寧に語った。
脊髄腫瘍を発症した際、当時の主治医から「病気は乗り越えられる人を選んで、その人の試練として与えられるものだ」と言われたことが印象に残っている。平田さんは、その言葉を素直に受け止めた。
「私自身は病気によって成長できました。つらいときは誰もが目の前のことで精いっぱいかもしれませんが、新しい出会いもあります。この先も変わらず、自分を信じて、病気を乗り越えていきたいです」
同席していた母親も「このまま前向きに進んでいってほしいですね」と、優しいまなざしで平田さんを見つめた。