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「文化時報」コラム

〈15〉死亡率100%の烙印

2022年12月10日 | 2024年8月5日更新

※文化時報2022年3月25日号の掲載記事です。

 かれこれ30年医療の現場にいますけれど、「死ななくて困った」と言う方には、ついぞお目にかかったことがありません。人間は、この世に誕生した時から、死亡率100%の烙印(らくいん)を押されて、今を生きています。

傾聴ーいのちの叫び 

 でも、そんなことを毎日考えていたら、生きづらくて仕方ないでしょう。朝、目が覚めて、「わあ、いい天気。さあ、今日も頑張るぞ!」「…あ、でも、どうせ死ぬんだった。頑張ったところで、どうせ…」。こんな感じになったら、ほんとに毎日、どうしようもないですもの。

 だから、私たちは、明日もあさっても、いや、来年も再来年も、いやいや10年後も20年後も「生き続けていく」と漠然と思い込んで、日々を過ごしているのです。そういうふうにできているのです。どなたさまか存じ上げませんが、まったくうまいことつくってくださったものです。

 でも、大病を患ったり、家族を看取(みと)ったり、災害や戦争で多くの人の命が奪われるのを目の当たりにしたりすると、その魔法が解けてしまいます。人は、いつか皆、等しく死ぬという真理に気付いてしまいます。

 先日、某誌に掲載された石原慎太郎氏の遺稿を拝読しました。豪気で、型破り。死ぬのなんてまったく怖くないというようなお人柄ではないかと想像していたのですが、そうではなかったようです。「死」という真理に気付き、向き合う、その苦悩が行間から伝わってきました。このような方でさえそうなのかという怖さと、この方でさえそうなのだからという妙な安心を、感じさせていただきました。「死」が差し迫る状況の中で書き残してくださった、その魂の強さに敬服するよりほかありません。

 人は、ただただ生まれて、死んでいくだけ。そこには、意味も、理由も、評価も必要ない。そんな境地に至ることが、いつかできるものかしらん…。来来来世くらいで、たどり着ければいいかな~くらいの、長期戦で臨みます。

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