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「文化時報」コラム

〈76〉宗教間交流のすすめ

2024年6月9日

※文化時報2024年3月12日号の掲載記事です。

 「凹(くぼ)い所に難儀が集まる。凹い所には宗教者が必要」と聞いたことがある。昨年7月に亡くなった金光教羽曳野教会長・渡辺順一先生がおっしゃっていたそうだ。渡辺先生は、アパートを借り上げてシェルターを開設していた。行き場のない人のために一時的な住居を提供していたのだ。

 先日、その渡辺先生を偲(しの)ぶ会が行われた。儀式こそ金光教式ではあったが、仏教をはじめさまざまな宗教・宗派の人々が集まっていた。

 玉串奉奠(ほうてん)の際、金光教の作法にのっとって四拍手している人が多かった。筆者は玉串をささげたのち念珠を持って合掌した。自分なりに精いっぱいの敬意を表したつもりである。

 筆者は過去に2度、金光教の教会と施設で講演をしたことがある。教会では信者さんがいっぱいの中、講演というより法話をさせてもらった。キリスト教式の葬儀でも法話をさせてもらったこともある。そういう宗教を超えた柔軟性を育てていただいた。

 親鸞聖人は「神祇(じんぎ)不拝」と言われた。解釈の仕方によっては、真宗僧侶と名のる者が神様をまつる他宗教の礼拝施設へ出向くとは何たることか、とお叱りを受けそうである。また、他宗教の信者の前で仏教の話をするとは傲慢(ごうまん)ではないのか、とも言われるかもしれない。

 同じ信仰を持った者が集まる方が居心地はいいだろう。でも、行き過ぎると他の価値観を認められなくなる恐れがある。

 他の宗教との交流が難しいのであれば、医療や介護と宗教が連携していくのはなお困難であろう。医療には医療の、介護には介護の価値観(理屈)がある。それを理解しようと努力しないで、自分の主張だけしていては連携にならない。まずは相手の価値観を理解しようと努め、立場を尊重することからだろう。

 そんな思いがあったのだろうか、渡辺先生は宗教を超えた「支縁のまちネットワーク」という団体を立ち上げた。2011(平成23)年のことである。筆者はこのたびその団体の共同代表に就任し、ご遺志を引き継ぐことになった。活動の様子は小コラムで紹介していきたい。

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