2025年6月27日
東京都八王子市の看護師、藤崎舞雪さん(38)は2023年12月、仕事中に脳梗塞で倒れた。重度の後遺症が残って視覚障害者となり、生活は一変。夫と2人の娘に支えられながら、自身の障害について会員制交流サイト(SNS)での発信や講演会を始めた。「目が見えなくなった看護師の私だからこそ、できることがある」と前を向く。
「いつもニコニコ、明るい性格」と自分を評する藤崎さん。声のトーンやメリハリのある話し方から、パワフルな看護師だったことをほうふつとさせる。
脳梗塞は一般的に脳の動脈が詰まることで、手足のまひや言語障害が残る。だが、藤崎さんの場合は静脈が詰まったことで、視覚障害を負ったという。
完全に失明したわけではないが、視界がぼんやりで物の形や色は見えにくい。光の変化は感じられるといい、「海の底から水面を見るようなイメージ」と教えてくれた。
外出時は白杖(はくじょう)を使い、夫や同行援護従業者と共に行動する。時々、中学生になった長女の助けを借りて、近所のスーパーに行くこともある。
日常の家事は「ようやく自立できた」。退院から半年間は福祉サービスを利用し、訪問ヘルパーの支援を受けていたが、一人で行えるまでになった。これまでケアをする側だった自分が、ケアを受ける側になったことで多くの気付きを得たという。
長年積み上げた看護師のキャリアから離れ、落ち込む日もあったが、周りの応援もあり、現在は新しい活動に挑戦しようと一歩を踏み出している。
SNSでは日ごろの様子や思いを伝え、路上ライブで趣味の歌を披露。さらには障害者に対する理解を促すため、訪問看護師と看護学生に向けて「訪問看護の魅力と障害者の立場」などのテーマで講演している。
藤崎さんは1987(昭和62)年3月生まれ。20歳で看護学校を卒業し、大学病院や高齢者施設、訪問看護事業所で働いてきた。結婚後は子育てをしながら、ボイストレーニングに通うなど、プライベートを充実させていた。
そんな順風満帆だった生活が、脳梗塞を発症したことで、生死をさまよった。一命を取り留めたものの、視覚障害者になったショックは計り知れず、家族も動揺した。
退院後は2階の寝室にあったベッドや身の回りの物を1階に下ろし、藤崎さんが生活しやすい環境を整えることから始めた。
当たり前にできていたことができなくなり、歯がゆい気持ちになったものの、訪問ヘルパーから包丁の持ち方や調理法、掃除、入浴方法に至るまで、一つ一つの動作を教わった。
浴室ではシャンプーやせっけんの位置を決めて、触れただけで分かるような印を付けた。家族には、床に物を置かないよう徹底してもらっている。
ヘルパーとのやり取りで傷付くこともあった。煮物を作る際に、ほぼ全ての工程をヘルパーが行ってしまい、自分の出る幕がなかった。「野菜を切ることは難しくても、鍋に具材を入れることや、味付けくらいはできたのに」と悲しくなった。
だが、できることさえ奪われてしまう悔しさを実感したことで、看護師として患者と向き合ってきた自分もそうだったかもしれない、と振り返るようになった。
何よりつらかったのは、娘の保護者会での出来事だった。白杖を持って教室に入った瞬間、保護者たちの視線が一気に集中し、場の雰囲気が静まり返ったのを感じた。これまで仕事であまり学校行事に顔を出さなかったこともあり、気軽に話せるママ友がいなかったのも災いした。
席に着くと、担任が用意した音楽祭の動画を保護者全員で鑑賞した。いくら見ようとしても、わが子の姿は見えない。「この先、娘たちの成長をしっかり目に焼き付けることができない」と思い知り、愕然(がくぜん)とした。帰宅して、涙を流さずにいられなかった。
保護者会後、ふさぎ込んでしまった藤崎さんは、思わず「生きていても意味があるのか」とSNSに書き込んだ。投稿を見た知人が、心配して連絡をくれた。
「今の藤崎さんだからこそ、人に話せることがある」。そう励まされたことを胸に、縁あって登壇することになった医療法人が主催する講演会に臨んだ。
当日は50人ほどが集まり、驚きとうれしさが込み上げた。同じように障害を持ちながら仕事や子育てをしている人たちと話すこともでき、とても励まされたという。
今では健常者・障害者・医療従事者という「三つの視点」から物事を考えられることが自身の強みになっている。これまで以上に、支援を受ける高齢者や体の不自由な人たちへの理解と共感が持てるようになったと実感している。
「せっかく救ってもらった命なのだから、大事にしたい」。まだまだできることがあると自分に言い聞かせ、今まで見えなかった世界を全力で見ようとしている。