2024年1月12日 | 2024年7月8日更新
京都府向日市の小学校で教員として働く松岡千尋さん(38)は、毛髪疾患(ヘアロス)の当事者だ。教員として勤めだして2年目に髪が抜け落ち、さまざまな経験のあと、ターバンを頭に巻くようになった。「髪がないことで、生きにくさを感じるのはもったいない」。講演活動を通じて、人を見た目で判断しない社会にすることを目指している。(主筆 小野木康雄)
2023年11月17日夜、京都市下京区のひと・まち交流館京都で行われた「思いを聴く~当事者・当事者家族の思い」。さまざまな当事者・当事者家族を招く月1回の講座で、京都市福祉ボランティアセンター(田中聖所長)が開いている。松岡さんはヘアロス当事者として登壇した。
「ヘアロス当事者は100人に1人いるといわれています。『そんなにいるの?』と思いませんか」。松岡さんは冒頭で会場にそう語り掛けた。
ウィッグや帽子で隠している人もいるため、実際にはそれ以上いるといわれているほか、ヘアロスにはさまざまなタイプや原因があるのに、誤解されていることが多いという。
ヘアロス当事者らでつくり、松岡さんも所属するNPO法人Alopecia Style Project Japan(ASPJ=東京都中央区)によると、ヘアロスには次の4種類がある。
① 円形脱毛症
10円玉大の脱毛のイメージがあるが、場合によっては頭髪だけでなく、全身の体毛が抜けることもある。通常はウイルスや細菌とたたかうリンパ球が、毛包を攻撃してしまうことで起きる自己免疫疾患の一つ。
② 先天性縮毛症・乏毛症
生まれつき毛が少ないのが特徴。症例は200種類以上あり、それぞれ原因が異なる。原因が未解明の疾患もある。
③ 抜毛症
頭髪や体毛を自分で繰り返し抜くことで脱毛になる慢性疾患。さまざまな原因があると考えられている。自覚のある場合と、無意識に抜いてしまう場合がある。
④ 薬剤やウイルス疾患・外的要因(事故)による影響
抗がん剤治療の副作用やウイルス疾患の後遺症、交通事故などが原因となっているケースがある。元の髪が戻るまでに時間がかかったり、元に戻らなかったりすることもある。
松岡さんは、23歳のときに円形脱毛症になった。6月の終わりごろ、3カ所に脱毛が見つかると、8月にはすっかり髪が抜け落ち、まつ毛や眉毛なども全てなくなってしまった。ほかに体調の変化はなかったという。
当時は教員2年目で、三重県鈴鹿市の小学校で勤務しており、2年生の学級担任をしていた。ウィッグを着用したものの、幼い子どもがじゃれついたら絶対に気付かれると考え、夏休みが明けた始業式の日に、帰りの会でカミングアウトした。
すでに髪形が変わったことに気付いていた教え子たちに、ウィッグを着けていることを明かし、こう言った。「先生な、髪の毛なくなってしまってん」
ウィッグは「先生が先生らしく生きるために必要なもの」であり、「取って」「見せて」と頼まれるのは「服を脱いで」と言われるのと同じで嫌だということ。体は今まで通り元気で大丈夫ということ―。そう伝えると、子どもたちは理解してくれたという。
ただ、他のクラスの子どもたちには知らせておらず、こんなこともあった。
休み時間に子どもたちとドッジボールをしていたときのことだ。後ずさりをしていて子どもがいたことに気付かず、つまずいて転んでしまった。すると、ウィッグがぽん、と後ろに飛んで行った。
髪の毛が全くないと地肌に固定しづらく、急な動きに弱いというウィッグの特性から生じたアクシデントだった。他のクラスの子どもたちはあっけにとられていたが、自分のクラスの子どもたちは「先生カッコよかったで」「髪なくてもかわいいで」と言ってくれた。
この体験を通して、自分自身が人権教育の教材になると思ったという。
ひと・まち交流館京都での講座で松岡さんは、ヘアロス当事者が人に言われて最も嫌な言葉や行動は何だと思うかと、会場に問い掛けた。誰も正解を出せなかったが、当事者へのアンケートの結果、圧倒的に多かったのは「自分以外に対するハゲネタ、ハゲイジリ」だったと明かした。
「自分に直接向けられておらず、相手に悪意がないからこそ、傷つく。『髪がないと劣っている』という空気感になることがいたたまれない」
ヘアロス当事者がこれに近い感情を抱いた出来事が、2022年の米アカデミー賞授賞式であった。
プレゼンターとして舞台に立ったコメディアンがある冗談を言ったところ、俳優のウィル・スミスが壇上に上がり、平手打ちを食らわせたのだ。脱毛症である妻の髪形をからかう冗談だったことに怒ったのだという。
この件は日本でも報じられ、暴力をふるったウィル・スミスが悪いのか、外見を侮辱したコメディアンに非があるのかで意見が分かれたが、ヘアロス当事者たちはそうした報道に違和感を持っていた。
その冗談によって会場に笑いが起きたことが、一番ショックだったからだ。
もし肌の色に関するイジリだったら、どうだったか。きっと会場の反応は、違うものになっていただろう。
では、身近な人が髪を失うという現実に直面したとき、あなたならどうするだろうか―と松岡さんは参加者らに尋ねた。
おそらく、「いい病院はないか」「何が原因だったのか」などと考え、何とかしてあげたいと思うだろう、と松岡さんは言った。ただ、そうした言動を、当事者はこのように受け止めるのだと伝えた。
「髪がないとだめなの?」
「髪がないと心配かけちゃうんだ」
「髪がない私なんて…」
松岡さんは「皆さんが思う〝普通の姿〟が、当事者を苦しめているのかもしれない」と話し、髪があった方がいいという社会の偏見が背景にあると訴えた。
松岡さん自身が円形脱毛症になったとき、当時交際中だった夫は「病気でなくてよかった」と言ってくれた。松岡さんは「髪ではなく、自分自身を見てくれる人なんだ」と安心したという。
また、一般的に髪がないことはストレスに弱いと誤解され、仕事を任せてもらえない当事者が多い中、松岡さんは職場の上司や同僚がよく理解してくれて、それまで通りの仕事を続けられたことに、今も感謝している。
こうした周囲の理解が何よりも力になることはもちろんだが、松岡さん自身は身体的なイジリが常識外れになることを目指している。まず大人が意識を変えれば、子どもたちが大人になる20年後、30年後には社会が変わっているはずだと考えている。
現在はASPJの事務局メンバーとして、講演活動やヘアロス当事者の交流会を行っている松岡さん。勤務先の学校には、藍染めのターバンを巻いて通っており、子どもたちからは「ターバン先生」と呼ばれて親しまれているという。
「髪がないことは個性ではなく、体の弱みという特徴の一つ。生えていても抜けていても、みんなが認め合える環境が大事」。そう力を込めた。