検索ページへ 検索ページへ
メニュー
メニュー
TOP > 橋渡しインタビュー > 脳性麻痺のシングルファーザー 黒原裕喜さん

インタビュー

橋渡しインタビュー

脳性麻痺のシングルファーザー 黒原裕喜さん

2024年5月20日

 東京都調布市の黒原裕喜さん(37)は先天性脳性麻痺のシングルファーザーだ。高校卒業後は正規雇用で大手外資系医療メーカーに就職。障害者雇用を担当し、特性に合わせた業務の振り分けや働きやすい環境づくりを行ってきた。現在は障害者雇用コンサルタントとして独立。プライベートでは2020年に離婚して息子2人を引き取り、働き方を変えて、仕事と子育てを両立させている。

離婚と退職、人生の転機

 かつては朝6時に家を出て、夜中の2時に帰宅するほど激務だったという黒原さん。徐々に夫婦仲に亀裂が入り、コロナ禍になって離婚した。当時、息子たちは小学6年生と1年生。次男は母親がいなくなった寂しさから、学校でよく泣いていたという。

写真①サッカーユニフォーム姿の次男と
キャプ 次男と共に笑顔を見せる黒原さん 
次男と共に笑顔を見せる黒原さん

 そんな息子たちはこの春、長男が高校に入学。次男は5年生になり、習い事のサッカーで活躍するたくましい姿を見せている。

 「息子たちにはつらい思いをさせましたが、成長して頑張る姿を見ていると、子どもがいることのありがたさや自分が生きている意味を実感できます」

 離婚後は、15年間勤めた会社を退職。企業のグローバル化に伴い、自身が社内で立ち上げた障害者専門チームが解体され、この先の働き方を見直した。

 現在は障害者雇用コンサルタントとして独立し、業務委託で人事のサポートを請け負っている。また、就職活動をする障害者からの相談やカウンセリングを引き受け、積極的に支援している。

 離婚前に比べて収入は減ったが、子どもたちと過ごす時間は圧倒的に増えた。午後5時以降は仕事をせず家事に専念し、コミュニケーションも取るよう心がけている。

 「家は散らかっていますけど、以前は一人暮らしをしていたので家事はできます。料理が好きで、大変なことは洗濯物を干すくらいですかね」

 ときには母親としての役目も必要と言いながら、親子で助け合って暮らしている。

母親の人柄に救われて

 黒原さんは1986年生まれ。2歳半で先天性脳性麻痺との診断を受けた。

 保育園のときから健常者の子どもたちと過ごし、小学校では入学する際、特別支援学級へ行くことを勧められたが、母親が教育委員会に掛け合って普通学級に入った。

写真②:アイキャッチ兼用 スーツでにっこりする黒原さん
キャプ 小学校高学年から学級委員をやっていたと話す
小学校高学年から学級委員をやっていたと話す

 入学式当日、心細そうにする黒原さんの横で、母親は周囲の子どもたちに「うちにおいで、いつ遊びに来てもいいからね」と明るく声をかけていた。そのころの様子を、黒原さんはこう振り返る。

 「入学式が終わった次の日にはさっそく、3人の子が遊びに来て、次の週には10人になっていました。僕よりも先に友達が家にいる日もあって、楽しい学校生活のスタートが切れました。母の人間性に助けられて今の私がいると思います」

 中学では2年間、音楽好きの友達と調布駅で路上ライブをしていた。自分はなぜこの体で生まれてきたのか。みんなとは違う体で生きる意味とは何なのか―。心境を歌詞に乗せ、素直な気持ちを歌った。

 「歩いているだけで人から変な目で見られることがあって、それなら歌っても同じだろうと思い、勉強そっちのけで音楽に没頭していましたね。高校は合唱部が強い学校を選びました」

 卒業後の進路を考えると、体を動かしづらいことへの不安が募った。高校を半年間休学し、左手足と首の3箇所を手術した。だが、指の動きが少し良くなった程度で、あまり大きな効果は見られなかったという。

 将来は保育士になりたいとボランティアにも行ったが、保護者から心配の声が聞こえてきて夢を諦めるなど、悔しい思いもした。自分に何ができるのか模索しながら、障害者の職業訓練校で医療事務を学んだ。

障害者も健常者も、互いの世界を知るべきだ

 医療事務のスキルを生かすため、総合病院に就職したが人間関係がうまくいかず、1カ月で退職。その後、21歳で大手外資系医療メーカーに勤めることになった。

写真③ 横顔
キャプ 講演会などで登壇することもある
講演会などで登壇することもある

 人事の採用チームに配属され、最初はアシスタントの契約社員だったが、何度も上司に交渉して正社員になった。息子たちが生まれ、健常者の社員たちに引けを取らないよう必死に働いた。新卒の担当や、上司や同僚の手が届かない仕事を積極的にこなし、ポジションを得ていった。

 障害者雇用を担当したのは入社7年目のとき。障害を持つ自分だからこそ、理解し合える部分が多いと思って挑んだが、実際は困難な場面に当たることも多かった。

 「僕自身は障害があっても、子どもの頃から健常者と過ごしたので、会話の温度や空気感が分かります。ですが、障害者だけの世界で過ごして来た人は、健常者と仕事をすること自体が理解できていない、ということに気が付きました」

 黒原さんは障害者も、健常者の世界を知る必要があると考えている。社会では「企業は障害者への理解が足りない、もっと障害者に働きやすい環境を与えよ」と、健常者側に訴えることが多い。だが、たとえ障害があっても、働く以上は健常者が求めるレベルを理解する姿勢が大事だという。

 また、企業も働く障害者の背景を十分認識しないまま仕事を進めようとする傾向にあり、互いに不満を抱えてしまう難しさがある。その結果、やりがいを持てず、モチベーションが下がって「つまらない」と辞めてしまう人もいる。職業経験が少ないまま、人間関係を構築することも難しく、転職を繰り返すという負のスパイラルに陥るケースは多い―と、黒原さんはみている。

 黒原さん自身は、子どもの頃から「なんとかなる」の精神で人生を送ってきた。

写真④ 子ども二人
キャプ まだ幼かった息子たち。これからも力を合わせて生きていく
まだ幼かった息子たち。これからも力を合わせて生きていく

 40代を前に働き方を変えたが、障害者一人一人の思いと向き合い、企業側の苦労も感じた自分だからこそ、今後は障害者雇用を軸にした事業を展開したいと語っていた。

 そして「息子たちが巣立つまでは、できることをしてあげたい」と、優しい父親の顔を見せた。

おすすめ記事

同じカテゴリの最新記事

error: コンテンツは保護されています