2025年2月9日 | 2025年2月10日更新
筋萎縮性側索硬化症(ALS)=用語解説=をはじめとする難病患者たちを題材にしたドキュメンタリー映画『杳(はる)かなる』(宍戸大裕監督)の公開が2月8日、「新宿 K's cinema 」(東京都新宿区)で始まった。7年前にALSの確定診断を受けた佐藤裕美さんと、ALSを発症して19年の岡部宏生さんを中心に、3年半にわたって5人の日常にカメラを向けた。淡々とした映像の中に、胸を打たれるシーンの数々がある。(文・イラスト 飯塚まりな)
映画制作の契機は、2019年11月に起きた嘱託殺人事件。京都市在住のALS患者の50代女性が、会員制交流サイト(SNS)で知り合った医師2人に自分を殺すよう依頼し、薬物の投与によって殺害された。ネット上では「安楽死制度が必要ではないか」という声が高まり、宍戸監督は難病患者たちの生存がおびやかされる事態に発展しかねないという危機を感じて、撮影を始めた。
映画は佐藤さんが秋空の下、電動車いすに乗り、公園で読書しているシーンから始まる。
佐藤さんは夫と2人暮らし。18年にALSと診断された。ベッドの上にはパソコンが置かれ、キーボードを打って文章や詩をつづっている。発症前は東日本大震災で被災した宮城県南三陸町へ頻繁にボランティアへ行き、現地の人たちと積極的に関わっていた。登山も大好きだったが、富士登山で下山中、体に異変を覚えたという。
佐藤さんは自作の詩に、こんな言葉を書き連ねていた。
「私の声を奪うな 私をいなかったことにするな」「私を利用するな」
そんな佐藤さんの前に、海老原宏美さんという女性が現れた。海老原さんも難病患者で、生まれつきの脊髄性筋萎縮症(SMA)。とても明るく、ミュージカルのモデルをするなど活発な彼女が、佐藤さんと岡部さんを引き合わせた。
岡部さんは06年に48歳でALSを発症。人工呼吸器を装着し24時間在宅介護を受けながら、本を執筆していた。病気の進行で表情は読み取りにくいが、長年支援を行う介助者は透明な文字盤でやりとりし、スムーズに会話していた。
岡部さんは時折、悲しい顔をする佐藤さんに「生きることを一緒に考えたい」と告げた。2人はタッグを組み、3年半にわたる撮影が本格的にスタートした。
撮影では佐藤さんが熱心にリハビリに励む姿や、娘と孫を連れて公園に行く楽しそうな様子が映しだされる一方、病気の進行に苦しみ、自分を撮影されることに苦痛を感じていく様子も赤裸々に描かれていた。実際、宍戸監督に「今後の撮影は当面難しい」と心の内を伝え、撮影は1年ほど止まってしまった。
その間、映像は別のALS患者、加藤眞弓さんの介助風景に切り替わった。学生の介助者たちが交代で茨城県内の自宅を訪問し、話しかけ、懸命にコミュニケーションを取ろうとする。はたから見ると寝たきりの加藤さんは、意識がどこまであるのかも定かでない状態だが、学生たちは諦めない。瞳や唇、微細な動きを逃すまいと、純粋な表情で加藤さんをじっと見つめる。
宍戸監督と岡部さんは、変わらず佐藤さんが戻ってくるのを願った。
岡部さんはALS発症後、重度身体障害者のために介助者を増やすことを目指すNPO法人「境を越えて」を立ち上げ、精力的に活動してきたが、社会の第一線で啓発に取り組んでいた〝先輩〟のALS患者である橋本みさおさんから刺激を受け、励まされ、そして命のバトンを受け取っていた。
橋本さんは岡部さんに「人に気を遣うことを覚えて」と伝えたという。全ての行為を誰かに手伝ってもらわなければならない状況は、つらくても当たり前ではない。橋本さんは家族に頼らず独居生活を選び、知恵とバイタリティーによって自らピアサポートの団体を立ち上げていた。
1年後、映像は南三陸の風景に変わり、戻ってきた佐藤さんがカメラの前にいた。岡部さんを誘い、旅に出たのだ。
久しぶりの南三陸で親しい人との再会も果たし、穏やかな表情の佐藤さん。岡部さんはタイミングを見計らったのか、その場である思いを託した。
命のバトンが渡された瞬間。海を前にして、佐藤さんは涙を浮かべた。
映画『杳かなる』は淡々と日常を映すことで、現実を突きつける。「追体験をするような映像にしたかった」と宍戸監督。撮影期間中に海老原さんと橋本さんは亡くなり、岡部さんは体調不良で試写会に来られなかった。
確かなことは、出演者全員の思いが佐藤さんに託されたことだ。映画のきっかけにもなった安楽死制度は、誰も望んでいる気配がなかった。どんなことがあっても生き切るという、底知れぬ決意さえ見えた。
今後は佐藤さんが他の患者たちの先頭を走り続けるのだろう。そしていつか彼女も、誰かにバトンを渡す日が来る。
それは、作品を見る私たちも同じだ。一体最後は誰に何のバトンを渡せるのか。静かに自分に問うてみた。
【用語解説】筋萎縮性側索硬化症(ALS)
全身の筋肉が衰える病気。神経だけが障害を受け、体が徐々に動かなくなる一方、感覚や視力・聴力などは保たれる。公益財団法人難病医学研究財団が運営する難病情報センターによると、年間の新規患者数は人口10万人当たり約1~2.5人。進行を遅らせる薬はあるが、治療法は見つかっていない。