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「文化時報」コラム

〈1〉苦を飲み込む水

2022年9月1日 | 2024年8月5日更新

※文化時報2021年8月19日号の掲載記事です。

 はじめまして。玉置妙憂と申します。かれこれ30年近く看護師をしておりまして、10年前からは僧侶でもあります。

傾聴ーいのちの叫び

 看護師と僧侶。片や命を続ける役目、片や命を終しまう役目。どうやって使い分けているのかと、よくお尋ねいただきます。たしかに、この二つの役目は、両極にあるように見えるかもしれません。でも、生も死もどちらも真ん中からそれ、右に振ったか左に振ったかの違いだけで、実は同じことなのではないでしょうか。だから、看護師も僧侶も、かたちが違うだけで結局は同じ役目のようなのです。

 そう思うに至りましたのは、長いこと看護の現場で働きながら、モヤモヤと抱え続けてきたさまざまな疑問や絶望、漠然とした不安やむなしさを”飲み込むための水”のようなものが、人の”死”にあったからです。

 皆さまの中にも、大切な人を亡くされたご経験がおありの方がいらっしゃることでしょう。言葉では言い尽くせない深い悲しみの中から、なにかお気付きになったことがおありなのではないでしょうか。それが、日々を生きることの四苦八苦を”飲み込むための水”なのです。

 そうなりますと人はすぐ、「私たちは死から学ぶのだ」「後悔しない死に方をしよう」「幸せな死を目指そう」と、前向きな考え方をしはじめるようです。尊敬すべきありようではありますが、奇麗事でまとめてしまうのは、どうも私の性に合いません。

 死というものは、どこまでも泥くさいものです。でも、泥くさいからこそ、汚泥からすっくと立ちあがる蓮の花のように、智慧が開くのだと思えてなりません。

 さあ、今日からはじめさせていただきます『傾聴―いのちの叫び―』では、先に逝かれた方々に残していただいたそれぞれの”命の終い方”を大切に思い出し、そこに気高く咲いている智慧の花を、皆さまと共にありがたく拝見してまいりたいと思います。

 どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

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