2023年12月29日 | 2024年10月2日更新
※文化時報2023年6月27日号の掲載記事です。
先日夜に病院から電話があった。
夜に病院から電話がかかると悪い知らせ(死亡など)である。「あ~あ」と思いながら電話に出た。入院中の高齢男性が転倒したという連絡だった。幸いにしてケガはないようだ。内心ホッとした。
入院手続きをすると、時に「転倒した場合、ご連絡した方がいいですか?」と尋ねられることがある。初めての人だと「何でそんなことを尋ねるのだろう?」と不思議に思うかもしれない。病院から電話があると家族はドキッとするので「そんなことでいちいち電話をしてくるな」と怒る家族もいるそうだ。それで怒る家族は、転倒したことを連絡しないでいると、それはそれで怒るような気もするが。
筆者が理事を務める福祉施設では「危篤の連絡も不要」という家族がいる。極端な例かもしれないが、「亡くなっても何もできないから、連絡はいらない」という家族もいた。施設側でどうにでもしてくれ、ということだった。
亡くなったのは夜間だったので、朝になるのを待って恐る恐る電話してみた。意外とすんなり受け入れたので、もう一歩踏み込んでみた。「車でお迎えに行くので、顔を見に来てくれませんか?」と言ってみたのだ。それにはずいぶんと抵抗された。
ところが、結局はタクシーに乗ってやってきて、葬儀代金も負担して、お骨も持って帰られた。提案はしてみるものである。
身寄りがないとされている単身の高齢者でも、甥(おい)や姪(めい)も含めると近親者はいる場合は多い。「面倒は一切見ません」と言っていても、亡くなったとなると心境が変わることもしばしばある。
少子超高齢社会のわが国では、そんなケースがたくさん出てきている。弔うという宗教儀式の尊重なのか、あるいは祟(たた)りがあるかもしれないという恐れなのかは分からない。いずれにしても、宗教者として無関心ではいられないだろうと思う。どんな時代になっても宗教の果たす役目は大きいとも思う。